サッカーの話をしよう
No.40 下手な審判・程度の低い記事
先日、名古屋のラジオ局の仕事でリネカーと話をする機会があり、審判の話題になった。そのなかで昨年の開幕戦で彼がアンラーズに対してあげたゴールが、オフサイドとして認められなかった話が出た。
「あれはまったくオフサイドではなかった」
と水を向けると、
「そうだね、線審のミスだった。しかしタッチラインの外にテレビを置いてリプレーを見るわけにはいかないから仕方がないよ」
と、彼はいつものように穏やかな笑顔で話す。
「でもあれが認められていれば、まったく別の1年になったかもしれない」
食い下がる私に、彼はさとすようにこういった。
「たしかに、オフサイドでなかったプレーがオフサイドとして認められなかった。しかし別の試合では、オフサイドから入れたものが、ゴールと認められることもある。僕の経験でも、ずいぶんそんなことがあったんだ」−。
2シーズン目のJリーグ開幕を1カ月後に控えて、いろいろなメディアで審判批判が盛んだ。ジーコのように「特定のチームに偏った判定をする」というのは極端だが、「ヘタな審判がJリーグをダメにする」という論調は少なくない。
「審判にもイエローカードを」「いっそのこと全部外国人にしろ」などという乱暴な意見も見られる。
非紳士的行為や後ろからのタックル、戦術的ファウルなどへの処罰基準が世界的に厳しくなったため、Jリーグの一年目はイエローカード、レッドカードが乱れ飛び、その判定を中心に審判をめぐるトラブルも少なくなかった。
最大の問題は、何かあるたびに選手たちが審判にくってかかり、執拗に抗議を続けることだ。なかでも警告や退場になりそうなひどい反則があったときに、みんなで審判を囲んでカードを出させないようにしようとするのは、気分が悪くなるほど見苦しい。
試合後には「あんな審判では試合ができない」とまくしたてる。審判はいっさいコメントをしないから、選手たちの不満だけが活字となり、報道される。
昨年からことしにかけ、こうして「審判不信」の空気が醸成されてきた。このような状況ではけっしていい審判は育たないだろう。Jリーグや日本のサッカーにとって、より大きな問題はこの点にある。
第1に、試合中のすべての決定は審判がすることを選手たちがもういちど確認し、判定に対して文句をいわないことを徹底しなければならない。日本人選手、外国人選手を問わず、各クラブがこうした行為に断固とした態度をとらないかぎり、事態は好転しない。
審判の間違いや誤解があっても、後日クラブがリーグに対して文書で申し立てをするしかない。試合中には、キャプテンにも監督にも判定に異議を唱える権利はないのだ。
そして第二に、マスメディアが、選手たちのコメントだけを頼りにせず、もっとルールや判定、審判技術に対する知識や見識を高めて報道に当たらなければなければならない。
「疑惑の判定」などという記事は出るのに、「この試合の主審はすばらしかった」という記事をほとんど見ることがないのは、記者たちが独自の目で判定や審判を見ることができないことの証拠ではないか。
「ヘタな審判」だけがJリーグを危機にさらすのではない。「程度の低い記事のほうがJリーグにとって有害」と思っている審判は少なくないはずだ。
選手も記者(もちろん私も含め)も、リネカーの言葉をもっともっとかみしめなければならない。
(1994年2月8日)
「あれはまったくオフサイドではなかった」
と水を向けると、
「そうだね、線審のミスだった。しかしタッチラインの外にテレビを置いてリプレーを見るわけにはいかないから仕方がないよ」
と、彼はいつものように穏やかな笑顔で話す。
「でもあれが認められていれば、まったく別の1年になったかもしれない」
食い下がる私に、彼はさとすようにこういった。
「たしかに、オフサイドでなかったプレーがオフサイドとして認められなかった。しかし別の試合では、オフサイドから入れたものが、ゴールと認められることもある。僕の経験でも、ずいぶんそんなことがあったんだ」−。
2シーズン目のJリーグ開幕を1カ月後に控えて、いろいろなメディアで審判批判が盛んだ。ジーコのように「特定のチームに偏った判定をする」というのは極端だが、「ヘタな審判がJリーグをダメにする」という論調は少なくない。
「審判にもイエローカードを」「いっそのこと全部外国人にしろ」などという乱暴な意見も見られる。
非紳士的行為や後ろからのタックル、戦術的ファウルなどへの処罰基準が世界的に厳しくなったため、Jリーグの一年目はイエローカード、レッドカードが乱れ飛び、その判定を中心に審判をめぐるトラブルも少なくなかった。
最大の問題は、何かあるたびに選手たちが審判にくってかかり、執拗に抗議を続けることだ。なかでも警告や退場になりそうなひどい反則があったときに、みんなで審判を囲んでカードを出させないようにしようとするのは、気分が悪くなるほど見苦しい。
試合後には「あんな審判では試合ができない」とまくしたてる。審判はいっさいコメントをしないから、選手たちの不満だけが活字となり、報道される。
昨年からことしにかけ、こうして「審判不信」の空気が醸成されてきた。このような状況ではけっしていい審判は育たないだろう。Jリーグや日本のサッカーにとって、より大きな問題はこの点にある。
第1に、試合中のすべての決定は審判がすることを選手たちがもういちど確認し、判定に対して文句をいわないことを徹底しなければならない。日本人選手、外国人選手を問わず、各クラブがこうした行為に断固とした態度をとらないかぎり、事態は好転しない。
審判の間違いや誤解があっても、後日クラブがリーグに対して文書で申し立てをするしかない。試合中には、キャプテンにも監督にも判定に異議を唱える権利はないのだ。
そして第二に、マスメディアが、選手たちのコメントだけを頼りにせず、もっとルールや判定、審判技術に対する知識や見識を高めて報道に当たらなければなければならない。
「疑惑の判定」などという記事は出るのに、「この試合の主審はすばらしかった」という記事をほとんど見ることがないのは、記者たちが独自の目で判定や審判を見ることができないことの証拠ではないか。
「ヘタな審判」だけがJリーグを危機にさらすのではない。「程度の低い記事のほうがJリーグにとって有害」と思っている審判は少なくないはずだ。
選手も記者(もちろん私も含め)も、リネカーの言葉をもっともっとかみしめなければならない。
(1994年2月8日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。