サッカーの話をしよう
No.56 くじ議論よりスポーツ政策の議論を
スポーツ議員連盟による「スポーツ振興くじ」、いわゆるサッカーくじの法案大綱が発表され、同時に、「スポーツ振興政策案」も公表された。
くじそのものにはPTA全国協議会などから「青少年に悪影響を与える」と反対意見が出ている。巨額が動くだけに、新たな権力構造ができはしないか、収益が本当にスポーツの振興だけに使われのかなど心配も多い。「なぜサッカーなのか」という声も聞かれる。
だが、こうしたサッカーくじそのものの善悪や制度を論議する前に、もっと大事なことがあるのではないだろうか。それは、この国のスポーツを今後どうしていかなければならないか、ひとことでいえば「スポーツ政策」に関する議論だ。
スポーツとは、本来非常にプライベートな性格のものだ。どのような考えでスポーツに取り組むか、あるいはスポーツにかかわるかかかわらないかは個人の自由であり、他人や、まして政府から強制されて行うものではない。とすれば、スポーツにかかる費用は参加する人自らが負担しなくてはならない。市民スポーツであろうと、国際的な競技に参加するトップスポーツであろうと、これが原則だと思う。
だが実際には、スポーツを行うための施設を個人がもつことは不可能だ。トップアスリートといっても、プロフェッショナルとして成り立つのはごく限られているから、何らかの援助がなければ競技力を維持することはできない。原則としては「自前」で行わなければならないスポーツに行政がからんでくるのは、こうした現状があるからだ。
これまでの日本のスポーツは、主として学校と企業に頼っていた。公共的な施設は非常に貧弱で、選手は原則として「学生」か「実業団」しかいなかった。これでは、「自由」にスポーツ活動を行うことはできない双方ともまず学校、企業の「理論」が優先されるからだ。
これをスポーツ本来の姿に戻すには、誰もが手軽に利用できる施設や、スポーツそのものを目的にした組織を創設しなければならない。これがスポーツ政策における第1のテーマだ。
そして第2には、トップアスリートが安心して競技を行うことのできる環境づくり、社会的なサポート態勢の完備が、大きなテーマとなる。ただし、この点に関しては、別の意見をもつ人もいるはずだ。
こうしたスポーツ政策の柱を議論し、具体案を検討し、そしてそれにかかる費用を算出することが第1ではないか。そして現在予定されている財源との比較によって、はじめて「スポーツ振興資金をどうするか」という検討がなされ、サッカーくじの可能性、可否が論議されるのが順番ではないか。
現在のサッカーくじをめぐる論議を見ていると、こうした政策論は無視され、サッカーくじの是非ばかりに目を奪われているような気がする。それとも、スポーツ政策自体は、すでに国民的なコンセンサスができているのだろうか。
「スポーツ貧国」日本を21世紀に向けてどう変えていかなければならないのか、私たちの子供や子孫にどのような社会を残したいのか。そうしたバックグラウンドなしに資金づくりにばかり目を取られていると、産み落とされた資金は迷子になってしまう。
冒頭に書いたように、スポーツ議員連盟はサッカーくじの法案大綱とともに、「スポーツ振興政策案」も出している。いまなすべきことは、この案をたたき台にスポーツ政策を徹底的に議論し、具体化していくことだと思う。
(1994年6月7日=火)
くじそのものにはPTA全国協議会などから「青少年に悪影響を与える」と反対意見が出ている。巨額が動くだけに、新たな権力構造ができはしないか、収益が本当にスポーツの振興だけに使われのかなど心配も多い。「なぜサッカーなのか」という声も聞かれる。
だが、こうしたサッカーくじそのものの善悪や制度を論議する前に、もっと大事なことがあるのではないだろうか。それは、この国のスポーツを今後どうしていかなければならないか、ひとことでいえば「スポーツ政策」に関する議論だ。
スポーツとは、本来非常にプライベートな性格のものだ。どのような考えでスポーツに取り組むか、あるいはスポーツにかかわるかかかわらないかは個人の自由であり、他人や、まして政府から強制されて行うものではない。とすれば、スポーツにかかる費用は参加する人自らが負担しなくてはならない。市民スポーツであろうと、国際的な競技に参加するトップスポーツであろうと、これが原則だと思う。
だが実際には、スポーツを行うための施設を個人がもつことは不可能だ。トップアスリートといっても、プロフェッショナルとして成り立つのはごく限られているから、何らかの援助がなければ競技力を維持することはできない。原則としては「自前」で行わなければならないスポーツに行政がからんでくるのは、こうした現状があるからだ。
これまでの日本のスポーツは、主として学校と企業に頼っていた。公共的な施設は非常に貧弱で、選手は原則として「学生」か「実業団」しかいなかった。これでは、「自由」にスポーツ活動を行うことはできない双方ともまず学校、企業の「理論」が優先されるからだ。
これをスポーツ本来の姿に戻すには、誰もが手軽に利用できる施設や、スポーツそのものを目的にした組織を創設しなければならない。これがスポーツ政策における第1のテーマだ。
そして第2には、トップアスリートが安心して競技を行うことのできる環境づくり、社会的なサポート態勢の完備が、大きなテーマとなる。ただし、この点に関しては、別の意見をもつ人もいるはずだ。
こうしたスポーツ政策の柱を議論し、具体案を検討し、そしてそれにかかる費用を算出することが第1ではないか。そして現在予定されている財源との比較によって、はじめて「スポーツ振興資金をどうするか」という検討がなされ、サッカーくじの可能性、可否が論議されるのが順番ではないか。
現在のサッカーくじをめぐる論議を見ていると、こうした政策論は無視され、サッカーくじの是非ばかりに目を奪われているような気がする。それとも、スポーツ政策自体は、すでに国民的なコンセンサスができているのだろうか。
「スポーツ貧国」日本を21世紀に向けてどう変えていかなければならないのか、私たちの子供や子孫にどのような社会を残したいのか。そうしたバックグラウンドなしに資金づくりにばかり目を取られていると、産み落とされた資金は迷子になってしまう。
冒頭に書いたように、スポーツ議員連盟はサッカーくじの法案大綱とともに、「スポーツ振興政策案」も出している。いまなすべきことは、この案をたたき台にスポーツ政策を徹底的に議論し、具体化していくことだと思う。
(1994年6月7日=火)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。