サッカーの話をしよう
No.57 ディエゴ・ルセーロ 伝説の記者
第15回ワールドカップ開幕が目前に迫ってきた。1930年から世界のサッカーファンの夢を乗せ、世界のプロフェッショナルたちが情熱を注いで戦ってきたワールドカップ。
協会関係者以外の日本人が実際にこの世界最大のスポーツの祭典を見たのは、66年のイングランド大会のころだっただろう。テレビ放送が始まったのは70年メキシコ大会。初めて生中継されたのは74年西ドイツ大会のことだった。62年チリ大会までは、日本人にとってワールドカップはいわば「歴史」のなかの出来事でしかない。
だが世界は広い。南米には、1930年以来すべての大会を取材してきた記者がいるのだ。アルゼンチンの「クラリン」紙の特派員として今回も取材にやってくるディエゴ・ルセーロ。記者としてだけでなく、あらゆる分野で全大会を実際に見たにはこの人ひとり。64年間にわたるワールドカップの歴史の「生き証人」である。
ディエゴ・ルセーロ、本名ルイス・シュットは1901年にウルグアイのモンテビデオで生まれた。両親は北イタリアからの移民で非常に貧しく、彼は小学校を3年でやめなければならなかった。12歳のときに電信会社に配達ボーイとして雇われ、タイプライターの使い方を覚える。
生活のために必死に働きながらも、彼は生まれつきの頑丈な体を動かすことを好み、サッカーのとりこになった。ウルグアイのサッカーは草創期にあり、彼は自分でクラブをつくり、会長になって3部リーグでプレーした。左ウイングとして能力を発揮した彼は、やがて1部リーグのチームに移籍し、23歳のときには強豪中の強豪「ナシオナル」に引き抜かれた。
勝ったら10ペソのプレミアムが出た。宿敵ペニャロールとの試合では100ペソも出た。彼はびっくりし、母に全部渡してしまった。
だが、こうした日々は長くは続かなかった。その年のうちに彼はヒザを負傷してしまったのだ。半月板の損傷。今日なら簡単な手術で直すことができる。だが当時は半月板の存在さえあまりよく知られていなかった。無理してプレーを続けたが、3年後、28歳で引退を余儀なくされた。
引退前から新聞にコラムをもっていたこともあり、彼は新聞記者になった。そうしてやってきたのが、地元で開かれた第1回のワールドカップだった。
「それからは偶然の産物なんだ」と彼は語る。
34年にはヘンリー・レガッタに出場したウルグアイのクルーの取材に英国へ特派されていた。そこからフランスオープン・テニスの取材に回り、ついでにイタリアまで足を伸ばしてワールドカップを取材した。38年にはスペイン内戦の特派員だった。休暇をとってフランスでの第3回大会を取材したのだ。
そして第二次大戦後、彼はブエノスアイレスに移り住み、「ディエゴ・ルセーロ」というペンネームで記事を書きはじめたのだ。
小説、彫刻など、多方面で才能を認められるルセーロ。新聞記者としても、ムッソリーニ、ピカソなど、幅広い人物のインタビュー記事などの業績がある。もちろんサッカーの記事も評価が高い。独特の切り口、温かみのある庶民的なスペイン語の使い手としてよく知られている。
アラセリ夫人がいつも付き添っているが、足どりはまだまだ確かだ。記者席の急な階段も、自らの足で登る。そして「2002年には101歳だね。必ず日本に行くよ」と語る。
きょう6月14日は彼の93回目の誕生日。アメリカでの再会が楽しみだ。
(1994年6月14日=火)
協会関係者以外の日本人が実際にこの世界最大のスポーツの祭典を見たのは、66年のイングランド大会のころだっただろう。テレビ放送が始まったのは70年メキシコ大会。初めて生中継されたのは74年西ドイツ大会のことだった。62年チリ大会までは、日本人にとってワールドカップはいわば「歴史」のなかの出来事でしかない。
だが世界は広い。南米には、1930年以来すべての大会を取材してきた記者がいるのだ。アルゼンチンの「クラリン」紙の特派員として今回も取材にやってくるディエゴ・ルセーロ。記者としてだけでなく、あらゆる分野で全大会を実際に見たにはこの人ひとり。64年間にわたるワールドカップの歴史の「生き証人」である。
ディエゴ・ルセーロ、本名ルイス・シュットは1901年にウルグアイのモンテビデオで生まれた。両親は北イタリアからの移民で非常に貧しく、彼は小学校を3年でやめなければならなかった。12歳のときに電信会社に配達ボーイとして雇われ、タイプライターの使い方を覚える。
生活のために必死に働きながらも、彼は生まれつきの頑丈な体を動かすことを好み、サッカーのとりこになった。ウルグアイのサッカーは草創期にあり、彼は自分でクラブをつくり、会長になって3部リーグでプレーした。左ウイングとして能力を発揮した彼は、やがて1部リーグのチームに移籍し、23歳のときには強豪中の強豪「ナシオナル」に引き抜かれた。
勝ったら10ペソのプレミアムが出た。宿敵ペニャロールとの試合では100ペソも出た。彼はびっくりし、母に全部渡してしまった。
だが、こうした日々は長くは続かなかった。その年のうちに彼はヒザを負傷してしまったのだ。半月板の損傷。今日なら簡単な手術で直すことができる。だが当時は半月板の存在さえあまりよく知られていなかった。無理してプレーを続けたが、3年後、28歳で引退を余儀なくされた。
引退前から新聞にコラムをもっていたこともあり、彼は新聞記者になった。そうしてやってきたのが、地元で開かれた第1回のワールドカップだった。
「それからは偶然の産物なんだ」と彼は語る。
34年にはヘンリー・レガッタに出場したウルグアイのクルーの取材に英国へ特派されていた。そこからフランスオープン・テニスの取材に回り、ついでにイタリアまで足を伸ばしてワールドカップを取材した。38年にはスペイン内戦の特派員だった。休暇をとってフランスでの第3回大会を取材したのだ。
そして第二次大戦後、彼はブエノスアイレスに移り住み、「ディエゴ・ルセーロ」というペンネームで記事を書きはじめたのだ。
小説、彫刻など、多方面で才能を認められるルセーロ。新聞記者としても、ムッソリーニ、ピカソなど、幅広い人物のインタビュー記事などの業績がある。もちろんサッカーの記事も評価が高い。独特の切り口、温かみのある庶民的なスペイン語の使い手としてよく知られている。
アラセリ夫人がいつも付き添っているが、足どりはまだまだ確かだ。記者席の急な階段も、自らの足で登る。そして「2002年には101歳だね。必ず日本に行くよ」と語る。
きょう6月14日は彼の93回目の誕生日。アメリカでの再会が楽しみだ。
(1994年6月14日=火)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。