サッカーの話をしよう
No.91 高田静夫 次代を勇気づける
日本人として初めてワールドカップで主審を務め、国内で長い間「ナンバーワン」といわれてきた高田静夫審判員(47)が、今年度のJリーグの審判員にノミネートされていないことが明らかになった。トップクラスの試合からの事実上の引退である。
東京教育大と、できたばかりの読売クラブ(現在のヴェルディ)でプレーした高田さんは、26歳で選手を引退して審判員の道にはいった。日本のトップクラスである「1級」に登録されたのが80年。84年に国際審判員となった。
東京でスポーツ店を経営しながらの21年間の審判生活に、感謝とねぎらいの言葉を贈りたい。
日本人では、丸山義行さんが70年のメキシコ・ワールドカップで線審をしたが、主審は86年大会の高田さんが初めて。スペイン×アルジェリア戦だった。だがこの試合は負傷者が出てリズムが狂い、自信を失って帰国した。
しかしその後も努力を重ね、90年イタリア大会に再び選ばれる。そしてユーゴ×UAE戦で主審をし、線審も決勝トーナメントのイングランド×ベルギー戦を含め3試合務めた。
高田さんのきびきびとした審判ぶりは非常に高い評価を受けた。大会途中で多くの審判が帰国を命じられるなか、最後まで「候補」としてイタリアに留まったのは、レコードブックには残らない偉大な記録だ。
選手時代はスピードのあるMFだった高田さん、審判になってからはさらに厳しく自己を律し、常に万全の体調で自信あふれる笛を吹いた。
しかし学生時代の古キズであるヒザと腰の状態がここ数年良くなく、2年前にも引退を申し出た。日本サッカー協会の浅見俊雄審判委員長に慰留され、痛みと戦いながらのJリーグ2シーズンだった。
「トレーニング量は減らっていないし、体力的に落ちたわけではない。それより、自分自身で納得いく試合が少なくなってきたことが、(引退を)決意した理由でした」(高田さん)
高田さんクラスになっても、「百パーセント完全な笛が吹けたことは一度もない」というほど、サッカーの審判は難しい。
日本の審判は、世界的に見てもけっしてレベルは低くない。しかし審判になろうという若い人が非常に少ないことは大きな問題だ。若くやる気のある審判がいても、彼らを指導する人が絶対的に欠けている。
高田さんは今後、そうした後輩の指導に当たる。審判を取り巻く環境の理解を深め、改善していく仕事もするつもりだという。
現在、審判の「セミプロ化」などの調査に、欧州各国を回っている高田さん。3月末には、サウジアラビアでの「審判インスタラクター」研修会に、やはりことし「引退」した舘喜一郎さんとともに参加する。
21年間の審判生活のなかで、高田さんが国際的な審判員として大きく伸びるきっかけになったのが、84年12月のアジアカップ決勝大会だった。そのとき、シンガポール人のスパイヤーという大先輩が、
「多少の失敗は気にしなくていい。とにかく、自分のもっているものを出しなさい」
と言ってくれた。
この言葉ですうっと気が楽になった高田さんは、英国人の審判インストラクターから「パーフェクト」と絶賛されるレフェリングをすることができたという。
自身「インストラクター見習い」と言う高田さんだが、スパイヤーさんのように若い世代を勇気づけ、ワールドカップの決勝を吹くような審判員を育ててくれるに違いない。
(1995年2月21日)
東京教育大と、できたばかりの読売クラブ(現在のヴェルディ)でプレーした高田さんは、26歳で選手を引退して審判員の道にはいった。日本のトップクラスである「1級」に登録されたのが80年。84年に国際審判員となった。
東京でスポーツ店を経営しながらの21年間の審判生活に、感謝とねぎらいの言葉を贈りたい。
日本人では、丸山義行さんが70年のメキシコ・ワールドカップで線審をしたが、主審は86年大会の高田さんが初めて。スペイン×アルジェリア戦だった。だがこの試合は負傷者が出てリズムが狂い、自信を失って帰国した。
しかしその後も努力を重ね、90年イタリア大会に再び選ばれる。そしてユーゴ×UAE戦で主審をし、線審も決勝トーナメントのイングランド×ベルギー戦を含め3試合務めた。
高田さんのきびきびとした審判ぶりは非常に高い評価を受けた。大会途中で多くの審判が帰国を命じられるなか、最後まで「候補」としてイタリアに留まったのは、レコードブックには残らない偉大な記録だ。
選手時代はスピードのあるMFだった高田さん、審判になってからはさらに厳しく自己を律し、常に万全の体調で自信あふれる笛を吹いた。
しかし学生時代の古キズであるヒザと腰の状態がここ数年良くなく、2年前にも引退を申し出た。日本サッカー協会の浅見俊雄審判委員長に慰留され、痛みと戦いながらのJリーグ2シーズンだった。
「トレーニング量は減らっていないし、体力的に落ちたわけではない。それより、自分自身で納得いく試合が少なくなってきたことが、(引退を)決意した理由でした」(高田さん)
高田さんクラスになっても、「百パーセント完全な笛が吹けたことは一度もない」というほど、サッカーの審判は難しい。
日本の審判は、世界的に見てもけっしてレベルは低くない。しかし審判になろうという若い人が非常に少ないことは大きな問題だ。若くやる気のある審判がいても、彼らを指導する人が絶対的に欠けている。
高田さんは今後、そうした後輩の指導に当たる。審判を取り巻く環境の理解を深め、改善していく仕事もするつもりだという。
現在、審判の「セミプロ化」などの調査に、欧州各国を回っている高田さん。3月末には、サウジアラビアでの「審判インスタラクター」研修会に、やはりことし「引退」した舘喜一郎さんとともに参加する。
21年間の審判生活のなかで、高田さんが国際的な審判員として大きく伸びるきっかけになったのが、84年12月のアジアカップ決勝大会だった。そのとき、シンガポール人のスパイヤーという大先輩が、
「多少の失敗は気にしなくていい。とにかく、自分のもっているものを出しなさい」
と言ってくれた。
この言葉ですうっと気が楽になった高田さんは、英国人の審判インストラクターから「パーフェクト」と絶賛されるレフェリングをすることができたという。
自身「インストラクター見習い」と言う高田さんだが、スパイヤーさんのように若い世代を勇気づけ、ワールドカップの決勝を吹くような審判員を育ててくれるに違いない。
(1995年2月21日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。