サッカーの話をしよう
No.123 勝利至上主義はどこからきたのか
Jリーグはことしも「フェアプレー賞」の該当者がいない。すでに全クラブが規定のポイントをはるかにオーバーしているからだ。
川淵三郎チェアマンは日ごろから「フェアプレーなくして何のサッカーか」と強調している。しかし各クラブにとっては、高円宮杯と賞金500万円になど何の魅力もないらしい。それよりも、優勝、あるいは1勝のほうが「価値」があると判断しているのだろう。
しかし、警告や退場をポイント制で計算して決定する「フェアプレー賞」の該当者がないことは、ルールの解釈や適用の大変動期にある現在では、仕方のないことではないかと思う。それよりも問題なのは、退場や警告、あるいは反則にさえならないアンフェアーな行為が、相変わらず横行していることだ。
フリーキックのときにとりあえず近くに立って相手の素早いリスタートを妨害するのは、もはや「基本戦術的行為」。相手側のスローインとわかったときにあらぬ方向や上に高く投げる選手を見ない試合もない。
そして試合が終わった瞬間にフィールド上で目立つのは勝者が抱き合う姿ばかり。なによりもまず互いに健闘をたたえ合う姿など、見ることはない。
審判員に対する態度のひどさも相変わらずだ。不利な笛を吹かれたと思ったときには、力いっぱい怖い顔でにらみつけ、大声をあげる。ペナルティーキックをとるための「演技」も、減る様子はない。これが審判に対する重大な侮辱であることを、選手たちはどこまで理解しているのか。
入場者数が落ちるのは当然のこと。こんな不愉快きわまりない「アンフェアプレー」のオンパレードを、だれが高い入場料を払って見にくるというのだ。
こうした行為の原因が、「勝利至上主義」にあることは明らかだ。「どんなことをしようと勝つことが絶対の正義」というのが、現在のJリーグを支配する基本思想なのだ。
審判の目を盗んで手でボールをコントロールし、決勝点につなげた選手は、試合後のコメントの不用意さを非難されることはあっても、行為そのものは「技術のうち」とされ、勝利のヒーローのままだ。
「勝てば官軍」。この言葉ほど、現在のJリーグを象徴するものはない。
では、その勝利至上主義はどこからきたのか。
何よりも、選手たちを育成してきた過程が問題だ。小学生のときから、「勝つため」にしかサッカーをさせてこなかったことが、これほどまでに選手をゆがめてしまったのだ。
リーグ戦では本来不要な「サドンデス」方式の採用に代表される、Jリーグの運営にも問題がある。
観客にとってはたしかにスリリング。だがこれは、「九十分間に全力を出し尽くす」という本質を忘れさせ、サッカーをゲームでなく、オールオアナッシングの「ギャンブル」にしてしまった。その結果、選手ばかりでなくファンも、敗戦からは何も満足を得られなくなってしまった。
Jリーグは日本のスポーツ文化をより豊かなものにすることを目指しているという。だが勝利至上主義に毒された現状は、文化と呼ぶにはあまりに貧しい。
ルールに従って正直にプレーするのは、愚かなことだろうか。フェアプレーには、勝利やタイトル以上の価値は、本当にないというのだろうか。
各クラブの役員、スタッフ、選手のひとりひとりがそれを真剣に考え、フェアプレー精神あふれるリーグをつくり出さない限り、Jリーグが二十一世紀の豊かなスポーツ文化の担い手となることはない。
(1995年10月31日)
川淵三郎チェアマンは日ごろから「フェアプレーなくして何のサッカーか」と強調している。しかし各クラブにとっては、高円宮杯と賞金500万円になど何の魅力もないらしい。それよりも、優勝、あるいは1勝のほうが「価値」があると判断しているのだろう。
しかし、警告や退場をポイント制で計算して決定する「フェアプレー賞」の該当者がないことは、ルールの解釈や適用の大変動期にある現在では、仕方のないことではないかと思う。それよりも問題なのは、退場や警告、あるいは反則にさえならないアンフェアーな行為が、相変わらず横行していることだ。
フリーキックのときにとりあえず近くに立って相手の素早いリスタートを妨害するのは、もはや「基本戦術的行為」。相手側のスローインとわかったときにあらぬ方向や上に高く投げる選手を見ない試合もない。
そして試合が終わった瞬間にフィールド上で目立つのは勝者が抱き合う姿ばかり。なによりもまず互いに健闘をたたえ合う姿など、見ることはない。
審判員に対する態度のひどさも相変わらずだ。不利な笛を吹かれたと思ったときには、力いっぱい怖い顔でにらみつけ、大声をあげる。ペナルティーキックをとるための「演技」も、減る様子はない。これが審判に対する重大な侮辱であることを、選手たちはどこまで理解しているのか。
入場者数が落ちるのは当然のこと。こんな不愉快きわまりない「アンフェアプレー」のオンパレードを、だれが高い入場料を払って見にくるというのだ。
こうした行為の原因が、「勝利至上主義」にあることは明らかだ。「どんなことをしようと勝つことが絶対の正義」というのが、現在のJリーグを支配する基本思想なのだ。
審判の目を盗んで手でボールをコントロールし、決勝点につなげた選手は、試合後のコメントの不用意さを非難されることはあっても、行為そのものは「技術のうち」とされ、勝利のヒーローのままだ。
「勝てば官軍」。この言葉ほど、現在のJリーグを象徴するものはない。
では、その勝利至上主義はどこからきたのか。
何よりも、選手たちを育成してきた過程が問題だ。小学生のときから、「勝つため」にしかサッカーをさせてこなかったことが、これほどまでに選手をゆがめてしまったのだ。
リーグ戦では本来不要な「サドンデス」方式の採用に代表される、Jリーグの運営にも問題がある。
観客にとってはたしかにスリリング。だがこれは、「九十分間に全力を出し尽くす」という本質を忘れさせ、サッカーをゲームでなく、オールオアナッシングの「ギャンブル」にしてしまった。その結果、選手ばかりでなくファンも、敗戦からは何も満足を得られなくなってしまった。
Jリーグは日本のスポーツ文化をより豊かなものにすることを目指しているという。だが勝利至上主義に毒された現状は、文化と呼ぶにはあまりに貧しい。
ルールに従って正直にプレーするのは、愚かなことだろうか。フェアプレーには、勝利やタイトル以上の価値は、本当にないというのだろうか。
各クラブの役員、スタッフ、選手のひとりひとりがそれを真剣に考え、フェアプレー精神あふれるリーグをつくり出さない限り、Jリーグが二十一世紀の豊かなスポーツ文化の担い手となることはない。
(1995年10月31日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。