サッカーの話をしよう
No.128 ゲルト・ミュラー クラブがあった幸運
「ゲルト・ミュラー」という名前を聞いたことがあるだろうか。ワールドカップの通算得点の記録保持者である。
ミュラーは、70年(メキシコ)と74年(西ドイツ)の2大会に出場し、70年には10ゴールをマークして得点王。地元での大会でも貴重な4ゴールで優勝のヒーローとなった。とくに無敵・オランダを下した決勝戦での決勝ゴールは、イマジネーションに富み、「芸術」といっていいほどすばらしいものだった。
そのゲルト・ミュラーがことし11月に50歳の誕生日を迎えた。だがそれは「スーパースター」らしからぬ質素な、身内だけのお祝いだったという。
ペレの50歳の誕生日にはミラノで「ブラジル×世界選抜」戦が組まれ、ペレは実に14年ぶりにブラジル代表出場数を伸ばした。ミュラーの同僚だったフランツ・ベッケンバウアーはジーコなどを招いてチャリティーゲームを行い、50歳の誕生日を祝った。
だが、彼らにも負けないスーパースターだったミュラーの誕生日は、そうした派手なイベントなどほど遠いものだった。
ゲルト・ミュラーはベッケンバウアーとともにバイエルン・ミュンヘンで活躍した。ブンデスリーガ通算365ゴールは永遠に破られることはない大記録。西ドイツ代表でも、62試合で68ゴールという破天荒な記録をつくった。
だが、国際舞台での活躍は74年ワールドカップ優勝と同時に突然幕が引かれる。西ドイツサッカー協会が優勝祝賀会に婦人の同伴を禁じたことで不信感をもち、同僚のパウル・ブライトナーとともに即座に引退を発表したからだ。ふたりは「もう節制はいらない」とばかりに、祝賀会でわざとらしく葉巻をくゆらせて見せた。
その後79年にバイエルン・ミュンヘンからフロリダのフォートローダデール・ストライカーズに移籍、北米リーグで3年間プレーして82年に引退した。
しかし引退後フロリダと西ドイツで始めた事業で失敗、次第に酒びたりの生活に陥っていった。90年には、完全なアルコール中毒状態で生命の危険さえあったという。
この状態を救ったのが、ベッケンバウアーと、やはり元同僚のウリ・ヘーネス(現在バイエルン・ミュンヘン・クラブのゼネラル・マネジャー)だった。ふたりはミュラーを病院に入れて治療を受けさせ、退院するとバイエルンのユース・コーチの仕事につけた。
若者たちとグラウンドに立つ生活に戻って、ミュラーは完全な健康状態で50歳の誕生日を迎えた。
「アルコールを完全に断ち切ったことは、ワールドカップの決勝ゴールよりずっと偉大な勝利だと思う」と、ベッケンバウアーは旧友の努力をたたえる。
クラブとプロ選手を結びつけるのは、一枚の契約書にすぎない。契約が成立しなければ、選手は他の働き場所を探さなければならない。その厳しさが、プロのレベルを保つ大きな要素となっている。
だがその一方で、クラブと選手は「親子」のような関係であり、選手同士は友情で結びつけられている。契約終了とともにバラバラになっても、その「親子関係」や友情自体は、日本でもミュラーの例のように壊れないものであってほしいと思わずにいられない。
「トレーニングウエア姿でグラウンドを走り回るだけで、生きていることのすばらしさを感じる」と静かに語るミュラー。
「バイエルン・ミュンヘンというクラブがあったことが、私にとって何よりも幸運だった」
(1995年12月5日)
ミュラーは、70年(メキシコ)と74年(西ドイツ)の2大会に出場し、70年には10ゴールをマークして得点王。地元での大会でも貴重な4ゴールで優勝のヒーローとなった。とくに無敵・オランダを下した決勝戦での決勝ゴールは、イマジネーションに富み、「芸術」といっていいほどすばらしいものだった。
そのゲルト・ミュラーがことし11月に50歳の誕生日を迎えた。だがそれは「スーパースター」らしからぬ質素な、身内だけのお祝いだったという。
ペレの50歳の誕生日にはミラノで「ブラジル×世界選抜」戦が組まれ、ペレは実に14年ぶりにブラジル代表出場数を伸ばした。ミュラーの同僚だったフランツ・ベッケンバウアーはジーコなどを招いてチャリティーゲームを行い、50歳の誕生日を祝った。
だが、彼らにも負けないスーパースターだったミュラーの誕生日は、そうした派手なイベントなどほど遠いものだった。
ゲルト・ミュラーはベッケンバウアーとともにバイエルン・ミュンヘンで活躍した。ブンデスリーガ通算365ゴールは永遠に破られることはない大記録。西ドイツ代表でも、62試合で68ゴールという破天荒な記録をつくった。
だが、国際舞台での活躍は74年ワールドカップ優勝と同時に突然幕が引かれる。西ドイツサッカー協会が優勝祝賀会に婦人の同伴を禁じたことで不信感をもち、同僚のパウル・ブライトナーとともに即座に引退を発表したからだ。ふたりは「もう節制はいらない」とばかりに、祝賀会でわざとらしく葉巻をくゆらせて見せた。
その後79年にバイエルン・ミュンヘンからフロリダのフォートローダデール・ストライカーズに移籍、北米リーグで3年間プレーして82年に引退した。
しかし引退後フロリダと西ドイツで始めた事業で失敗、次第に酒びたりの生活に陥っていった。90年には、完全なアルコール中毒状態で生命の危険さえあったという。
この状態を救ったのが、ベッケンバウアーと、やはり元同僚のウリ・ヘーネス(現在バイエルン・ミュンヘン・クラブのゼネラル・マネジャー)だった。ふたりはミュラーを病院に入れて治療を受けさせ、退院するとバイエルンのユース・コーチの仕事につけた。
若者たちとグラウンドに立つ生活に戻って、ミュラーは完全な健康状態で50歳の誕生日を迎えた。
「アルコールを完全に断ち切ったことは、ワールドカップの決勝ゴールよりずっと偉大な勝利だと思う」と、ベッケンバウアーは旧友の努力をたたえる。
クラブとプロ選手を結びつけるのは、一枚の契約書にすぎない。契約が成立しなければ、選手は他の働き場所を探さなければならない。その厳しさが、プロのレベルを保つ大きな要素となっている。
だがその一方で、クラブと選手は「親子」のような関係であり、選手同士は友情で結びつけられている。契約終了とともにバラバラになっても、その「親子関係」や友情自体は、日本でもミュラーの例のように壊れないものであってほしいと思わずにいられない。
「トレーニングウエア姿でグラウンドを走り回るだけで、生きていることのすばらしさを感じる」と静かに語るミュラー。
「バイエルン・ミュンヘンというクラブがあったことが、私にとって何よりも幸運だった」
(1995年12月5日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。