サッカーの話をしよう
No.132 チェローナ エルサルバドルを率いる
ハイメ・ロドリゲスといっても、知っている人はまずいないだろう。チェローナといえば、かすかな記憶をたどることのできる人がいるかもしれない。
この正月にもらった年賀状のなかに、Sさんからのものがあった。サッカーの修行をするためにかつてスペイン、メキシコと渡り歩いた人だ。そのメキシコのクラブで知り合ったのがハイメ・ロドリゲス、愛称チェローナだった。
Sさんの元に、祖国エルサルバドルに戻っていたチェローナから連絡がきたのは91年の秋だった。「日本でサッカーをしたい。選手が無理ならコーチでもいい」。31歳となり選手生活の最後を文化の違う国で送りたいと考えたのだ。
彼はエルサルバドルの国民的英雄だった。82年スペイン・ワールドカップに出場し、対アルゼンチン戦ではマラドーナをマークした。その後代表チームの主将として活躍、南米でも広く知られた存在だった。そのトップスターの座を投げうって、新しいチャンレンジを望んだのだった。
来日したのは91年秋。当時、日本リーグは最終シーズンにはいっており、Jリーグに移行するクラブは実力ある外国人選手を探していた。ことしからアビスパ福岡の監督になる清水秀彦氏が監督をしていた日産が、「練習で見てみよう」と受け入れた。
彼のプレーをひと目見た清水監督はリベロとしての能力に気づいた。「オスカー(元ブラジル代表主将、現在京都サンガ監督)以上かもしれない」。
だが日産には、井原、柱谷哲二をはじめ、若く将来有望なセンターバックがそろっていた。翌年には小村も加入することになっていた。結局チェローナをとったのは、当時日本リーグ2部でJリーグ入りの予定のなかったNKKだった。
本格的に日本でプレーすることが決まると、エルサルバドルの国営放送がクルーを送り込んできた。駐日エルサルバドル大使は、自らチェローナの子供たちが通う学校の面倒を見た。
明けて92年の1月に再開した2部リーグの後期、NKKは破竹の快進撃を見せた。チェローナはデビュー戦で自ら決勝ゴールを決めた。そしてNKKは5連勝、6試合連続無失点を記録した。観客が500人を超えたことも稀だったが(最も少ない試合は80人)、彼は後期の15試合にフル出場して4ゴールを記録。この間のチーム失点はわずか6、NKKは6位から4位に浮上した。
92年春、「ゾーンプレス」の完成を目指してリベロを探していた横浜フリューゲルスの加茂周監督がチェローナにほれこみ、彼はようやく実力にふさわしいトップリーグでプレーするチャンスをつかんだ。
だが9月のナビスコ杯では4試合目にヒザを傷めて交代、フリューゲルス最下位の原因となった。そして迎えた93年も、シーズン前のオーストラリア合宿で大ケガを負い、結局第2ステージに2試合出場しただけに止まった。
母国に帰った後、引退試合がサンサルバドルとロサンゼルスで行われたが、ロサンゼルスでの試合には、なんと4万人ものファンが集まったという。アメリカに出稼ぎにきている人びとが結集したからだった。
「1月13日からのゴールドカップで、チェローナがゼネラルマネジャーとしてエルサルバドル代表を率います」。Sさんの年賀状はこう結ばれていた。
かつて日本でのプレーに情熱を傾けた男が、カリフォルニアにアメリカ大陸の強豪が集まるこの大会で新しい挑戦を始める。なぜかとてもうれしい気分にさせる年賀状だった。
(1996年1月9日)
この正月にもらった年賀状のなかに、Sさんからのものがあった。サッカーの修行をするためにかつてスペイン、メキシコと渡り歩いた人だ。そのメキシコのクラブで知り合ったのがハイメ・ロドリゲス、愛称チェローナだった。
Sさんの元に、祖国エルサルバドルに戻っていたチェローナから連絡がきたのは91年の秋だった。「日本でサッカーをしたい。選手が無理ならコーチでもいい」。31歳となり選手生活の最後を文化の違う国で送りたいと考えたのだ。
彼はエルサルバドルの国民的英雄だった。82年スペイン・ワールドカップに出場し、対アルゼンチン戦ではマラドーナをマークした。その後代表チームの主将として活躍、南米でも広く知られた存在だった。そのトップスターの座を投げうって、新しいチャンレンジを望んだのだった。
来日したのは91年秋。当時、日本リーグは最終シーズンにはいっており、Jリーグに移行するクラブは実力ある外国人選手を探していた。ことしからアビスパ福岡の監督になる清水秀彦氏が監督をしていた日産が、「練習で見てみよう」と受け入れた。
彼のプレーをひと目見た清水監督はリベロとしての能力に気づいた。「オスカー(元ブラジル代表主将、現在京都サンガ監督)以上かもしれない」。
だが日産には、井原、柱谷哲二をはじめ、若く将来有望なセンターバックがそろっていた。翌年には小村も加入することになっていた。結局チェローナをとったのは、当時日本リーグ2部でJリーグ入りの予定のなかったNKKだった。
本格的に日本でプレーすることが決まると、エルサルバドルの国営放送がクルーを送り込んできた。駐日エルサルバドル大使は、自らチェローナの子供たちが通う学校の面倒を見た。
明けて92年の1月に再開した2部リーグの後期、NKKは破竹の快進撃を見せた。チェローナはデビュー戦で自ら決勝ゴールを決めた。そしてNKKは5連勝、6試合連続無失点を記録した。観客が500人を超えたことも稀だったが(最も少ない試合は80人)、彼は後期の15試合にフル出場して4ゴールを記録。この間のチーム失点はわずか6、NKKは6位から4位に浮上した。
92年春、「ゾーンプレス」の完成を目指してリベロを探していた横浜フリューゲルスの加茂周監督がチェローナにほれこみ、彼はようやく実力にふさわしいトップリーグでプレーするチャンスをつかんだ。
だが9月のナビスコ杯では4試合目にヒザを傷めて交代、フリューゲルス最下位の原因となった。そして迎えた93年も、シーズン前のオーストラリア合宿で大ケガを負い、結局第2ステージに2試合出場しただけに止まった。
母国に帰った後、引退試合がサンサルバドルとロサンゼルスで行われたが、ロサンゼルスでの試合には、なんと4万人ものファンが集まったという。アメリカに出稼ぎにきている人びとが結集したからだった。
「1月13日からのゴールドカップで、チェローナがゼネラルマネジャーとしてエルサルバドル代表を率います」。Sさんの年賀状はこう結ばれていた。
かつて日本でのプレーに情熱を傾けた男が、カリフォルニアにアメリカ大陸の強豪が集まるこの大会で新しい挑戦を始める。なぜかとてもうれしい気分にさせる年賀状だった。
(1996年1月9日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。