サッカーの話をしよう
No.141 古びた封筒から見えた世界
「はい、これ」
Jリーグの浅見俊雄審判委員長がいつもの気軽な口調で渡してくれた茶封筒。「日韓戦抽せん」と浅見さんの字で表書きされた中には、もうひとつ、すっかり変色した小さな封筒があった。裏面には「日本蹴球協会」の文字。表は青いインクで、「メルボルン行 対韓国豫選 抽籤 勝」と読める。そしてその中に「国宝」がはいっていた。
「勝 V」
2つ折りのザラ紙の左半分に、黒いインクの細い文字だった。
1956年、日本はメルボルン・オリンピックを目指す予選を韓国と戦った。まだ日本が韓国に行くことはできない時代、「ホームアンドアウェー」の2試合とも東京の後楽園競輪場で行われた。6月3日と10日のことだった。
第1戦は日本が2−0で勝ったが、韓国は第2戦を同じ点差で取り返し、規定により出場権をかけた抽選が行われることになった。そして日本の故竹腰重丸監督が引いた封筒が、私の目の前にあるものだった。
竹腰さんは浅見さんの義理の父にあたる。竹腰さんの奥さんが遺品の中から最近この封筒を発見し、浅見さんは現在製作中の「日本サッカー協会75年誌」の材料にしてもらおうと、私に託したのである。
そのへんのザラ紙を手で破いて作った間に合わせの抽選用紙、万年筆で走り書きした「勝 V」の文字。それを大事に保管していた竹腰さん。1936年ベルリン大会以来20年ぶりのオリンピック出場。あわただしい本部作業の様子と、日本サッカーの感激が40年間の時を超えて伝わる。
それから11年後、1967年の秋、日本はメキシコ・オリンピック予選を戦っていた。これも苦しみに満ちたものだった。
当時の日本代表は韓国を上回る力をもっていた。だが楽勝と見られた両者の対戦は、韓国の驚異的な粘りにあって3−3の引き分けに終わった。再三のリードを追いつかれ、最後には韓国のシュートがのバーに当たる幸運に助けられての引き分け。試合終了後は負けたような雰囲気だった。
しかし日本が15点を奪ったフィリピンから、韓国は全員守備にあって8点しか取れなかった。最終戦の南ベトナムに勝ちさえすれば、得失点差で出場権獲得が決まるのだ。
10月10日、最終戦、まるで93年ワールドカップ予選の対イラク戦のように日本選手にプレッシャーがかかる。前半は0−0。左肩の脱臼を押して出場した杉山隆一が、後半に唯一のゴールを記録し、まさに「薄氷を踏む思い」で出場権を獲得したのだった。
日本のサッカーは過去4回オリンピックに出場している。だが1936年ベルリン大会は予選がなく、1964年東京大会は地元のため予選免除。過去に予選を経て出場したのは、1956年と1968年の2回だけである。
そのメキシコから28年。「アトランタ」を目指す最後の戦いが目前となった。今回は大会規定により23歳以下の若者のチームの挑戦だ。
いろいろと難しい状況があったが、チームは準備を終え、会場のクアラルンプールに乗り込んだ。
選手諸君、ぜひ思い起こしてほしい。メキシコで銅メダルを獲得した先輩たちも、メルボルンの土を踏んだ先輩たちも、予選では苦しみ抜いたことを。そしてどんな苦しい状況になっても、自分自身を、チームの力を信じて戦い抜いたからこそ、「出場権」を獲得できたことを。
同じように戦い抜くことができれば、君たちの前には、広い、広い「世界」が開けるはずだ。
(1996年3月12日)
Jリーグの浅見俊雄審判委員長がいつもの気軽な口調で渡してくれた茶封筒。「日韓戦抽せん」と浅見さんの字で表書きされた中には、もうひとつ、すっかり変色した小さな封筒があった。裏面には「日本蹴球協会」の文字。表は青いインクで、「メルボルン行 対韓国豫選 抽籤 勝」と読める。そしてその中に「国宝」がはいっていた。
「勝 V」
2つ折りのザラ紙の左半分に、黒いインクの細い文字だった。
1956年、日本はメルボルン・オリンピックを目指す予選を韓国と戦った。まだ日本が韓国に行くことはできない時代、「ホームアンドアウェー」の2試合とも東京の後楽園競輪場で行われた。6月3日と10日のことだった。
第1戦は日本が2−0で勝ったが、韓国は第2戦を同じ点差で取り返し、規定により出場権をかけた抽選が行われることになった。そして日本の故竹腰重丸監督が引いた封筒が、私の目の前にあるものだった。
竹腰さんは浅見さんの義理の父にあたる。竹腰さんの奥さんが遺品の中から最近この封筒を発見し、浅見さんは現在製作中の「日本サッカー協会75年誌」の材料にしてもらおうと、私に託したのである。
そのへんのザラ紙を手で破いて作った間に合わせの抽選用紙、万年筆で走り書きした「勝 V」の文字。それを大事に保管していた竹腰さん。1936年ベルリン大会以来20年ぶりのオリンピック出場。あわただしい本部作業の様子と、日本サッカーの感激が40年間の時を超えて伝わる。
それから11年後、1967年の秋、日本はメキシコ・オリンピック予選を戦っていた。これも苦しみに満ちたものだった。
当時の日本代表は韓国を上回る力をもっていた。だが楽勝と見られた両者の対戦は、韓国の驚異的な粘りにあって3−3の引き分けに終わった。再三のリードを追いつかれ、最後には韓国のシュートがのバーに当たる幸運に助けられての引き分け。試合終了後は負けたような雰囲気だった。
しかし日本が15点を奪ったフィリピンから、韓国は全員守備にあって8点しか取れなかった。最終戦の南ベトナムに勝ちさえすれば、得失点差で出場権獲得が決まるのだ。
10月10日、最終戦、まるで93年ワールドカップ予選の対イラク戦のように日本選手にプレッシャーがかかる。前半は0−0。左肩の脱臼を押して出場した杉山隆一が、後半に唯一のゴールを記録し、まさに「薄氷を踏む思い」で出場権を獲得したのだった。
日本のサッカーは過去4回オリンピックに出場している。だが1936年ベルリン大会は予選がなく、1964年東京大会は地元のため予選免除。過去に予選を経て出場したのは、1956年と1968年の2回だけである。
そのメキシコから28年。「アトランタ」を目指す最後の戦いが目前となった。今回は大会規定により23歳以下の若者のチームの挑戦だ。
いろいろと難しい状況があったが、チームは準備を終え、会場のクアラルンプールに乗り込んだ。
選手諸君、ぜひ思い起こしてほしい。メキシコで銅メダルを獲得した先輩たちも、メルボルンの土を踏んだ先輩たちも、予選では苦しみ抜いたことを。そしてどんな苦しい状況になっても、自分自身を、チームの力を信じて戦い抜いたからこそ、「出場権」を獲得できたことを。
同じように戦い抜くことができれば、君たちの前には、広い、広い「世界」が開けるはずだ。
(1996年3月12日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。