サッカーの話をしよう
No.148 ネルシーニョ決断の意味
ヴェルディ川崎の新時代がスタートした。ラモスが去り、レオン新監督が着任して新しい規律や練習スケジュールが持ち込まれている。「強いヴェルディ」の復活は近い。
その大変化の「引き金」が、ネルシーニョ前監督の辞任だった。
外国のプロサッカーではシーズン序盤の監督交代は珍しいことではない。数試合でクビになる監督が、どの国にも毎年必ずいる。だが今回のネルシーニョの辞任はあまりに突然で、周囲の人びとを驚かせた。
4月13日に今季初めてヴェルディの試合(対レッズ)を見て、「活気」がないのに気づいた。
昨年までは相手の厚い守りに攻めあぐねることはあっても、最後には技術と試合運びのうまさを発揮して勝利をつかんでいた。それを支えたのは、チーム内の激しいポジション争いであり、サッカーを知り尽くしたプロ集団の「プライド」のようなものだった。
だが今季のヴェルディには、相手を萎縮させるような力はなかった。激しい闘志がスタンドにまで伝わってくることもなかった。
そのときに思ったのは、「監督を代えるしかない」ということだった。
ネルシーニョの能力がないというのではない。一昨年に指揮をとりはじめて以来、プロらしい冷徹なチームづくりでヴェルディを勝利に導いてきた手腕に疑いをはさむ余地はない。
「対ヴェルディ」で最高のモチベーションの下ぶつかってくる相手に対し、勝利を積み重ねていくことは容易なことではない。試合中のシステム変更などで見せた高度な指揮ぶりは「さすがブラジル屈指の若手監督」と思わせた。
だがそれでも、「監督が代わるしかない」と考えざるをえなかった。
ネルシーニョが実質的にチームを指揮するようになって約2年。監督は全選手の能力を把握し、選手たちも監督の戦い方を覚えた。その結果、ベテランも若手も競争意識が薄れ、意欲を失いかけている。いわば、チームの「硬化」が始まっていたのだ。
ネルシーニョもそう感じたに違いない。しかし自分で冷静にそう分析できる監督はけっして多くない。それを自主的に実行に移すことができる監督も、世界に何人もいないだろう。
「ヴェルディは優勝を争う力のあるチームのはず。いまならまだ間に合う。私がやめることによって、空気を入れ換えるのがベストの道だと思う」
逃げでも、言い訳でもない。本心からの言葉だと思う。自我を殺し、ヴェルディというチームにとって最善の方法だけを考え抜いた末の、「監督としての最後の仕事」だった。
今季前、私自身ヴェルディを有力な優勝候補にあげていた。選手の能力、選手層の暑さ、そしてそれをチームとしてまとめ上げていくネルシーニョの手腕を考慮してのものだった。
そのネルシーニョが自らチームを去り、「管理主義者」といわれるレオンが新監督に就任した。
横浜フリューゲルスの好調ぶりが光ったJリーグの前期。しかしまだ予断は許さない。いくつもの波乱が起こり、終盤まで優勝争いがもつれる予感がする。そして、そのなかにヴェルディがはいってくる可能性は十分あると思う。
そのとき、多くの人がネルシーニョの「決断」がどんな意味をもつものであったかを知るだろう。
ネルシーニョのような智将を日本のサッカーが失ったことは残念だ。だが、彼が残した「教訓」は、日本のサッカーが「大人」になるうえで大きな意味をもつものになるに違いない。
(1996年5月13日)
その大変化の「引き金」が、ネルシーニョ前監督の辞任だった。
外国のプロサッカーではシーズン序盤の監督交代は珍しいことではない。数試合でクビになる監督が、どの国にも毎年必ずいる。だが今回のネルシーニョの辞任はあまりに突然で、周囲の人びとを驚かせた。
4月13日に今季初めてヴェルディの試合(対レッズ)を見て、「活気」がないのに気づいた。
昨年までは相手の厚い守りに攻めあぐねることはあっても、最後には技術と試合運びのうまさを発揮して勝利をつかんでいた。それを支えたのは、チーム内の激しいポジション争いであり、サッカーを知り尽くしたプロ集団の「プライド」のようなものだった。
だが今季のヴェルディには、相手を萎縮させるような力はなかった。激しい闘志がスタンドにまで伝わってくることもなかった。
そのときに思ったのは、「監督を代えるしかない」ということだった。
ネルシーニョの能力がないというのではない。一昨年に指揮をとりはじめて以来、プロらしい冷徹なチームづくりでヴェルディを勝利に導いてきた手腕に疑いをはさむ余地はない。
「対ヴェルディ」で最高のモチベーションの下ぶつかってくる相手に対し、勝利を積み重ねていくことは容易なことではない。試合中のシステム変更などで見せた高度な指揮ぶりは「さすがブラジル屈指の若手監督」と思わせた。
だがそれでも、「監督が代わるしかない」と考えざるをえなかった。
ネルシーニョが実質的にチームを指揮するようになって約2年。監督は全選手の能力を把握し、選手たちも監督の戦い方を覚えた。その結果、ベテランも若手も競争意識が薄れ、意欲を失いかけている。いわば、チームの「硬化」が始まっていたのだ。
ネルシーニョもそう感じたに違いない。しかし自分で冷静にそう分析できる監督はけっして多くない。それを自主的に実行に移すことができる監督も、世界に何人もいないだろう。
「ヴェルディは優勝を争う力のあるチームのはず。いまならまだ間に合う。私がやめることによって、空気を入れ換えるのがベストの道だと思う」
逃げでも、言い訳でもない。本心からの言葉だと思う。自我を殺し、ヴェルディというチームにとって最善の方法だけを考え抜いた末の、「監督としての最後の仕事」だった。
今季前、私自身ヴェルディを有力な優勝候補にあげていた。選手の能力、選手層の暑さ、そしてそれをチームとしてまとめ上げていくネルシーニョの手腕を考慮してのものだった。
そのネルシーニョが自らチームを去り、「管理主義者」といわれるレオンが新監督に就任した。
横浜フリューゲルスの好調ぶりが光ったJリーグの前期。しかしまだ予断は許さない。いくつもの波乱が起こり、終盤まで優勝争いがもつれる予感がする。そして、そのなかにヴェルディがはいってくる可能性は十分あると思う。
そのとき、多くの人がネルシーニョの「決断」がどんな意味をもつものであったかを知るだろう。
ネルシーニョのような智将を日本のサッカーが失ったことは残念だ。だが、彼が残した「教訓」は、日本のサッカーが「大人」になるうえで大きな意味をもつものになるに違いない。
(1996年5月13日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。