サッカーの話をしよう
No.152 ヒーローインタビューは反スポーツ的
強豪メキシコに逆転勝ちした喜びが、どこかに吹き飛んでしまった。
5月29日、博多の森球技場。激しい試合の末キリンカップ優勝を決めた日本は抱き合って喜んだ。一方のメキシコは落胆の気持ちを抑え、「表彰式」のためにグラウンドに並んだ。と、そのときである。
ハーフラインとタッチラインが交差するあたりにマイクをもった男が現れる。そして日本の喜びの輪のなかから相馬選手が引っ張ってこられ「ヒーローインタビュー」が始まったのだ。スピーカーの声が場内いっぱいに響きわたる。
インタビューは延々と続き、メキシコの選手たちはあきれ顔で見ていたが、やがて無言で更衣室に引き揚げた。その後、メキシコの存在などなかったかのように表彰式が始まった。
ヒーローインタビューほど「反スポーツ」的なものはない。試合終了直後に興奮さめやらぬファンの前で選手に話をさせようというのは、どういう感性なのだろうか。
試合が終われば「ノーサイド」、敵も味方もない。ひとつのボールをめぐってプレーし合った「仲間」だけが存在する。試合自体には勝敗がつくが、選手たちは全員が90分間を戦い抜いた英雄であり、同時に仲間である。それがスポーツの本来の姿のはずだ。
勝ったらうれしいし、負けたら悔しいのは誰でも同じこと。だが「スポーツマン」というのは、どんな結果も受け入れることができなくてはならない。トップクラスの大人の選手であれば、誰でも知っている。
そうした心を踏みにじるのが、「ヒーローインタビュー」という名の悪しき習慣だ。これは試合運営側の演出ではなく、試合を中継している放送局がやっているものだ。
勝ったチームの選手に質問(ときには質問になっていない感想)をぶつけ、選手の言葉でスタンドをもういちど沸かせて「いい絵」にしようという低次元な魂胆。それは放送自体が「スポーツ中継」ではなく、ヒーローを中心とした「ドラマ仕立て」であることと表裏一体をなしている。
日本のスポーツ中継ほど「スポーツ」そのものに関心の薄いものはない。スターの「人間ドラマ」ばかりに熱中して、試合の流れとは無関係のおしゃべりに付き合われる視聴者などおかまいなしだ。
そして、放送の中だけならともかく、そうした感性を競技場、すなわちスポーツの現場にまで持ち込んだのが「ヒーローインタビュー」にほかならない。
放送の都合上選手のコメントがほしいのなら、部屋を用意するなり、更衣室への通路などを利用すればすむ。そうすれば選手たちも冷静になり、観客受けを狙った「がんばります。応援よろしく!」ではなく、知的で興味深い言葉を聞くことができるかもしれない。
もちろん、第一に必要なのは試合運営サイドの「見識」だ。観客の前でのヒーローインタビューを許可しているのは運営サイドだからだ。
私たちが見たいのは、品性のかけらもないお祭り騒ぎではない。2つのチームが全身全霊をかけて戦い、心の躍るようなゲーム、試合終了後には互いに健闘を讃え合う美しいスポーツマンシップ。いい代えれば、スポーツそのもののすばらしさを見たいのだ。
先日の博多の森。割れんばかりの拍手で両チームの気分を盛り立て、「いい試合」の舞台を整えてくれた観客が、「ヒーローインタビュー」のさなか、引き揚げていくメキシコ選手たちに盛大な拍手を送ってくれたことが、せめてもの救いだった。
(1996年6月10日)
5月29日、博多の森球技場。激しい試合の末キリンカップ優勝を決めた日本は抱き合って喜んだ。一方のメキシコは落胆の気持ちを抑え、「表彰式」のためにグラウンドに並んだ。と、そのときである。
ハーフラインとタッチラインが交差するあたりにマイクをもった男が現れる。そして日本の喜びの輪のなかから相馬選手が引っ張ってこられ「ヒーローインタビュー」が始まったのだ。スピーカーの声が場内いっぱいに響きわたる。
インタビューは延々と続き、メキシコの選手たちはあきれ顔で見ていたが、やがて無言で更衣室に引き揚げた。その後、メキシコの存在などなかったかのように表彰式が始まった。
ヒーローインタビューほど「反スポーツ」的なものはない。試合終了直後に興奮さめやらぬファンの前で選手に話をさせようというのは、どういう感性なのだろうか。
試合が終われば「ノーサイド」、敵も味方もない。ひとつのボールをめぐってプレーし合った「仲間」だけが存在する。試合自体には勝敗がつくが、選手たちは全員が90分間を戦い抜いた英雄であり、同時に仲間である。それがスポーツの本来の姿のはずだ。
勝ったらうれしいし、負けたら悔しいのは誰でも同じこと。だが「スポーツマン」というのは、どんな結果も受け入れることができなくてはならない。トップクラスの大人の選手であれば、誰でも知っている。
そうした心を踏みにじるのが、「ヒーローインタビュー」という名の悪しき習慣だ。これは試合運営側の演出ではなく、試合を中継している放送局がやっているものだ。
勝ったチームの選手に質問(ときには質問になっていない感想)をぶつけ、選手の言葉でスタンドをもういちど沸かせて「いい絵」にしようという低次元な魂胆。それは放送自体が「スポーツ中継」ではなく、ヒーローを中心とした「ドラマ仕立て」であることと表裏一体をなしている。
日本のスポーツ中継ほど「スポーツ」そのものに関心の薄いものはない。スターの「人間ドラマ」ばかりに熱中して、試合の流れとは無関係のおしゃべりに付き合われる視聴者などおかまいなしだ。
そして、放送の中だけならともかく、そうした感性を競技場、すなわちスポーツの現場にまで持ち込んだのが「ヒーローインタビュー」にほかならない。
放送の都合上選手のコメントがほしいのなら、部屋を用意するなり、更衣室への通路などを利用すればすむ。そうすれば選手たちも冷静になり、観客受けを狙った「がんばります。応援よろしく!」ではなく、知的で興味深い言葉を聞くことができるかもしれない。
もちろん、第一に必要なのは試合運営サイドの「見識」だ。観客の前でのヒーローインタビューを許可しているのは運営サイドだからだ。
私たちが見たいのは、品性のかけらもないお祭り騒ぎではない。2つのチームが全身全霊をかけて戦い、心の躍るようなゲーム、試合終了後には互いに健闘を讃え合う美しいスポーツマンシップ。いい代えれば、スポーツそのもののすばらしさを見たいのだ。
先日の博多の森。割れんばかりの拍手で両チームの気分を盛り立て、「いい試合」の舞台を整えてくれた観客が、「ヒーローインタビュー」のさなか、引き揚げていくメキシコ選手たちに盛大な拍手を送ってくれたことが、せめてもの救いだった。
(1996年6月10日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。