サッカーの話をしよう
No.188 ペルー公邸占拠事件から
4月23日。Jリーグの開催日。しかしそれに関係なく一般ニュースに「サッカー」の文字が躍った。在ペルー日本大使公邸の占拠事件が、ペルー当局の強行突入によって解決を見た日だった。
公邸占拠事件の第一報を聞いたのは、昨年12月、アジアカップ取材中のアブダビでだった。日本のいない準決勝の当日。朝日新聞のベテランカメラマンは、スタジアムから直接リマへと出発していった。
それから4カ月、23日の「突入」はゲリラたちが「サッカー」に興じていた瞬間を狙ったものと伝えられている。
「いくら広いといっても大広間でサッカーなんかできるのかな」と、疑問を持った人も多いだろう。だがサッカー狂たちは、「うーん、大広間か。それならちょうどいいな」と考える。ゲリラたちが使用していた「ボール」は、衣類を丸めたものだったという。そうだろう、そうに違いない。
何でもきちっとやらなければ気が済まない国民性なのか。サッカーというと、公式のボールを使い、公式の広さのあるグラウンドに公式のゴールを2個置かなければできないと考える人が多い。
しかし1個の「ボール」があればどこでもできるのがサッカーの本質である。そのボールも、公式のものどころか、丸ければ何でもいい。
「サッカーの神様」ペレは、貧しかった少年のころボロ布を丸めたボールでサッカーに興じたという。
ボールだけではない。ちょっとした広さがあれば、どこでも「グラウンド」になる。日本リーグ時代の日立を最下位から優勝に導いた名将・高橋英辰さんは、中学時代に寄宿舎の部屋でサッカーをしたという。軟式テニスのボールを使い、1人ならば「壁パス」とシュート、仲間がいれば押し入れをゴールにして一対一のゲームだったという。
サッカーを楽しむ気持さえあれば、フットサルという「公式」の形がなくてもほんのわずかな場所でゲームに熱中することができるのだ。
Jリーグの観客数が落ちても、少年の間ではサッカーが相変わらず絶大な人気スポーツで、各地の少年チームは入会希望者が順番待ちと聞く。しかし少年や周囲の大人たちがサッカーをひとつの「習い事」のようにとらえているのではないかと少し気になる。
サッカーはユニホームを着てグラウンドに行って、コーチから教わるもの。ボールも決められたもの。
そうではない。サッカーというのは、丸いものを足や体の各部で自由に扱い、工夫を凝らしたフェイントで相手を抜き去り、相手が必死に守るゴールを仲間と協力し合って陥れるなどの「喜び」を基本とするゲームなのだ。
少年時代にどれだけ「サッカーの喜び」を体験できるかが、その人のサッカー人生を大きく左右する。その喜びは、チームでの練習や、両親の声援を受けての試合より、日常の「遊び」のなかにより多く含まれている。
こんなにサッカーが盛んになったのに、町で「サッカー遊び」をしている少年を見かけないのはちょっと不幸だ。もっともっと日常的なサッカー遊びが増えてほしい。そのなかにこそ、心がウキウキするサッカーの喜びが隠されている。
丸4カ月にもわたる人質事件が解決した日、ニュースを見ながらこんなことを考えるのは不謹慎だっただろうか。まるでアクション映画のように一部始終がテレビで流され、その作戦行動のあまりの見事さに「現実感」を失ったためと、お許しください。
(1997年4月28日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。