サッカーの話をしよう
No.193 プロ意識なき監督批判
「読売クラブ、日本代表チームと、たくさんの監督の下でプレーしてきた。それも僕の財産ですよ」
加藤久氏(現在ヴェルディ川崎監督)からそんな言葉を聞いたことがある。
サッカー選手は、選手生活のなかで数多くの監督に出会う。トップクラスでは通常、2、3年で監督が交代するから、10年以上同じクラブにいても、選手はそのたびごとに新しいチーム方針への適応を迫られる。選手としての成長には、こうした変化への対応が大きな意味をもつのだ。
その加藤監督が苦境に立たされている。Jリーグ第1ステージの3分の2が終わった時点で16位。クラブは外国人のヘッドコーチ起用を決断したという。
不調の原因は単純ではない。不運もある。カズやアルジェウなどの相次ぐ負傷は響いた。また加藤監督が目指した「長期戦を戦い抜くための層の厚いチームづくり」も思うようには進まず、逆にチームを不安定にする結果を招いた。
だが何よりも大きな原因は、選手たちの「プロ」としての自覚の低さではないか。私にはそう思えてならない。今季のヴェルディの試合からは、選手の「必死さ」がほとんど伝わってこなかったからだ。
サッカーには「自由」を尊ぶ風潮がある。Jリーグ時代を迎えテレビに登場したサッカー選手たちに一般の人が最も驚いたのは、彼らの服装、髪形、自分の意見を堂々と口にする態度だった。それは大学の体育会に象徴される旧来の日本スポーツの体質とはまったく異次元のものだった。
それはそれでよい。だが最近、その「自由」の意味を考え違いしている選手が少なくない。その典型的な例が「監督批判」だ。
選手が自分自身の意見をもち、それを表現するのは歓迎すべきことだ。監督のやり方に疑問があったり、間違っていると思ったら、はっきりとそう発言するべきだ。ただし、それは、監督自身に向かってなされなければならない。
話し合って、納得がいけば言うことはない。だが仮に納得できなくても、その事柄に関する最終決定権は尊重しなければならない。すなわち、チームの戦術や選手起用は、監督の決定に従わざるをえないのだ。選手はそれをきちんと理解しなければならない。
ところが最近は、「監督批判」が簡単にメディアに載る。そしてその多くが選手自身の未熟さを棚に上げた発言なのにあきれる。自分のプレーを反省もせず、敗戦の責任を監督の采配に転嫁する選手がなぜこんなに多いのだろうか。それが「サッカー選手の特権」とでも思っているのか。
プロ選手であれば、いろいろな監督と「仕事」をしなくてはならない。好き嫌いの問題ではないのだ。であれば、監督にとことん食らいつき、その監督のもっているものをすべて引き出して自分の成長に役立てようという態度こそ、本物の「プロ」ではないか。
今季、ヴェルディの選手たちにそのような「プロ」の自覚はあっただろうか。加藤監督に必死に食らいついていった選手が、とくに若手に何人いたのか。
チームが不調なら、クラブは監督を代える。監督を更迭もせず、そのくせ監督の意向も聞かずに外国から「ヘッドコーチ」を呼ぶというヴェルディのやり方は理解を超えるが、通常は監督の首をすげ代える。それが最もてっとり早い「テコ入れ策」だからだ。
だがそれで選手たちの責任が消えるわけではない。どんなサッカーだろうと、選手たちがとことん食らいついていかない限り、指揮官の交代がいい結果を生むはずはないのだ。
(1997年6月9日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。