サッカーの話をしよう

No.200 トリニダードトバゴの幸せ

 ポートオブスペイン。
 カリブ海に浮かぶトリニダードトバゴ共和国首都、人口5万の町が、1989年11月17日金曜日、突然、赤く染まった。90年ワールドカップ大会予選、翌々日の対アメリカ戦に向け、みんなでナショナルカラーの「赤」を着て盛り上げようという呼びかけに多くの人が応え、町が赤い服装で埋まったのだ。
 
 この地域に割り当てられた出場数は2。すでに首位コスタリカの出場が決定、残るひとつの座を争うトリニダードとアメリカが同勝ち点で迎えた最終戦だ。得失点差で優位に立つトリニダードは、引き分ければ初出場が決まる。お祭り騒ぎになるのも当然だった。
 その晩、アメリカ代表チームが到着。深夜にもかかわらず空港には3000人もの市民が詰めかけた。だがそれは、野次を飛ばし、ブーイングするためではなかった。大きな拍手と歓声に迎えられたアメリカ・チームは、最初はとまどっていたが、すぐに手を振って歓呼に応えた。
 
 快晴の日曜日、スタジアムには朝早くからファンが押し寄せた。彼らは1人残らず真っ赤なシャツを着ていた。この島生まれのカリプソ音楽がにぎやかに演奏され、全員がリズミカルに体を動かす。それは、「生か死か」の「予選最終戦」の雰囲気ではなかった。完全に「お祭り」だった。
 まだ明るい日差しのなかでキックオフ。引き分けを狙うトリニダードはスローペースで試合を始める。攻めあぐねるアメリカ。しかし30分、アメリカのカリジュリがなかばやけくそで放ったミドルシュートがGKモーリスの意表をつき、ゴールを破った。
 アメリカの効果的な攻撃はこれひとつだった。しかしそれは、トリニダードトバゴ120万国民の夢を打ち砕くに十分だった。
 後半の反撃実らず0−1のまま試合終了。狂喜乱舞するアメリカ選手たちの横では、トリニダードの選手たちが力なく芝生に突っ伏していた。その失望は、誰にも理解できた。
 
 だが静寂は一瞬のことだった。その後、スタンドには信じ難い光景が広がっていった。真っ赤なシャツを着たファンたちは笑顔を取戻して踊り、いちだんと高い声で歌った。そしてアメリカチームには、盛大な拍手さえ送ったのだ。
 テレビ観戦していた人びとは家を飛びだして町に繰り出した。いまやスタジアムの「お祭り」はポートオブスペイン全体のものとなり、翌日まで続いた。
 ワールドカップには行けなかった。しかしこんなに浮き浮きとした思いは初めてだ。だからその喜びを表現し、みんなで分かち合いたい。そのあまりの純粋さは、「勝利至上主義」に毒された世界のスポーツ界に理屈抜きの感動を与えるものだった。
 
 日本サッカーにとってこの上なく大きな意味をもつワールドカップ・アジア最終予選スタートまで3週間たらずとなった。今回は完全な「ホームアンドアウェー」方式で、日本でも4試合が行われる。
 試合のことを考えると不安が次々と頭をもたげ、胃がキリキリと痛む。国立競技場のスタンドでどれだけ冷静でいられるか自信はない。すべてのファンに共通する気持ちに違いない。
 だがそうした「恐れ」より、トリニダードの人びとのような「喜び」の気持ちをもちたいと思う。こんなスリリングな体験をさせてくれる日本代表、相手チーム、そして何よりもサッカーそのものに、まずは深く感謝したいと強く思う。
 
 「喜び」。それは、世界最大の人気競技サッカーを支える、最もベーシックな要素だからだ。

(1997年8月18日)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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