サッカーの話をしよう
No.210 今井恭司 撮り逃した25年目の勝利
そのとき、写真家の今井恭司さん(51)は川口の背中、イランが攻めてくるゴール裏にいた。岡野の「ワールドカップ決定ゴール」を撮ったのは、若いスタッフカメラマンだった。
「延長にはいるとき、どう転んでもいいようにと、2人で分かれて撮ることにした。ずっと勝てなかったから、どこかに負けグセがついていたんですかね」
苦笑いしながら、今井さんは残念そうに語る。
「ずっと勝てなかった」。今回の最終予選のことではない。今井さんが日本のサッカーとともに過ごした四半世紀のことだ。
今井さんが初めてサッカーを撮ったのは72年、あのペレが初めて日本の芝を踏んだときだった。「サッカーマガジン」の編集者だった橋本文夫さんに「人手が足りないから手伝って」と頼まれたのだ。
東京写真大学を出て広告写真家の内弟子となり、スタジオカメラマンを目指していた今井さんは、軽い気持ちで引き受けた。
だが今井さんの人柄と丁寧な仕事ぶりを認めた橋本さんは、次々と仕事を依頼し、数年後には「カメラマン兼記者」として単身外国に送り出す。中東や東南アジアに日本のチームを追って写真を撮り、記事を書いて航空貨物で送るハードな仕事だった。
76年6月に日本ユース代表が初めてヨーロッパに遠征、今井さんは日本から唯一の同行記者だった。そのチームに、初選出、19歳の岡田武史がいた。
目立たないがしっかりと自分を持ち、誰にも迎合しない岡田に、今井さんは何度も感心したという。
だがサッカーの取材で日本中、世界中を飛び回っても、それだけで家族を養うことはできなかった。日本サッカーの「冬」の時代。雑誌も部数が伸びず、予算は限られていた。
自然に、今井さんの「仕事」の中心は別の方面に移っていった。自分でスタジオをもち、会社組織にしていろいろな写真を撮った。80年代にはサッカーは仕事のほんの一部となった。だが、サッカーから離れることはできなかった。
日本リーグの試合日に、「どうせ売れっこないんだから」と休んだことがあった。しかし試合の時間が近づくと、そわそわして、かえって疲れた。見かねた妻の三千代さんから、「そんなだったら、行けばいいのに」と言われた。
そうして、今井さんは盛り上がらない日本サッカーと、「勝てない」日本代表チームを撮り続けた。サッカー協会から無理な注文を受けても、何も言わずいつもの笑顔で引き受けた。
20年間近くのサッカーとのつきあいが突然収入に結びついたのは90年代になってから。Jリーグの誕生とともに「サッカーの写真なら今井さん」という評価が固まり、サッカーに忙殺される毎日となった。
だが、「今度こそ」と期待したドーハで、日本はまたも苦杯をなめた。
肩を落とす若い記者たちを、今井さんはこう声をかけながら慰めた。
「僕なんか20年以上も負けるのを見続けてきたんだから」
取材を始めてから25年、今井さんはついに日本が勝つのを見た。
歴史的な岡野のゴールを撮り逃がした「消化不良」の気持ちを抱きつつ、脳裏によぎったのは、負け続けた日本代表、ガラガラのスタジアムでも懸命にプレーしていた日本リーグの選手たちのことだった。
自分のファインダーの中を駆け抜けていった無数の選手たち。彼らの情熱が自分をここまで引っぱってきたことを思ったとき、今井さんは胸が熱くなるのを抑えることができなかった。
(1997年12月1日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。