サッカーの話をしよう

No.222 小さなカップに無数の思い、無限の価値

 最も印象的に残っているのは、メキシコ市のアステカ・スタジアムでの86年大会決勝戦だ。
 優勝したアルゼンチンの選手たちを中心に、役員やカメラマン、そしてどうはいってきたのか、数百人のファンがフィールドの中央に集まっている。そしてその中央に、肩車されたマラドーナがいる。
 右手につかんだカップを高々と掲げるマラドーナ。正午キックオフだったからまだ午後2時を回ったばかり。すり鉢の底のようなアステカ・スタジアムのピッチには強烈な日差しが降り注いでいた。その中心で、黄金のワールドカップがきらきらと輝いていた。
 「ワールドカップ」というが、「杯(さかずき)」の部分はない。二人の選手が背中合わせに両腕を差し上げて地球を支えているデザインは、イタリア人の彫刻家シルビオ・ガッツァニガによるものだ。

 18金製、高さ36センチ、重さは4970グラム。1.5リットルのペットボトルをひと回り大きくし、3倍の重さがあると思えばいい。
 1930年の第1回大会からの「初代」のカップには、「3回優勝したチームが永久に保持できる」という決まりがあった。70年メキシコ大会でブラジルが3回目の優勝を達成、無事引退した。その後継者となったのが、この「FIFAワールドカップ」だ。
 このカップには初代のような決まりはない。今後ずっと使われる。基底部には17枚の小さな銘板を入れるスペースがあり、ここに優勝チームの名が刻まれる。74年大会から17回だから、2038年の第26回大会までの分ということになる。
 初代は「ジュール・リメ杯」と呼ばれた。1921年から54年までFIFA会長を務め、「ワールドカップの父」といわれるフランス人の功績をたたえて、1946年に正式にそう命名されたのだ。

 ふたりの女神が八角形の「杯」を頭上に捧げているデザイン。純銀製のトロフィーに金メッキをほどこしたもので、台座には高さ10センチあまりの青い石が使われていた。合わせた高さは約35センチ。2代目とほぼ同じだが、重さは約3800グラム。かなり軽かった。
 38年の第3回大会後、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入した。ワールドカップを保持していたのはイタリア。戦火にさらされるなかでカップの行方が心配されたが、戦後、無事であることが確認された。FIFAの副会長でもあったイタリア協会のオットリノ・バラッシ会長が、自宅のベッドの下に靴箱に入れて隠し持っていたという。
 66年イングランド大会では、一般公開の間に盗まれるという事件が起きた。しかし1週間後、ロンドンのある庭の植え込みに隠されているのが発見された。発見したのは「ピクルス」という名の犬。一躍大会の人気者となった。

 70年にブラジルが「永久保持」することになったが、1993年に盗まれ、こんどは発見されることはなかった。現在ブラジル協会に置かれているのは、後日複製したものだ。
 これまでにワールドカップの優勝を経験したのはウルグアイ(2回)、イタリア(3回)、西ドイツ(3回)、ブラジル(4回)、イングランド(1回)、アルゼンチン(2回)の六カ国だけ。栄光のカップを受け取った優勝キャプテンも15人にすぎない。
 無数の選手がこのカップをつかむために人生を賭けて戦ってきた。そして無数のサッカーファンがその戦いに胸を躍らせてきた。その無数の思いが、この小さなカップに無限の価値を与えている。

(1998年4月6日)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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