サッカーの話をしよう
No.229 トゥールーズとフォンテーヌ
1990年ワールドカップ・イタリア大会が大詰めを迎えたある日、ローマ市内を見下ろす丘の上のホテルでひとつのパーティーが開かれた。2年後に決定する98年大会の開催国に立候補しているフランスの招致委員会が主催したPRのための会だった。
世界中からの数百人の報道関係者の注目が招致活動の中心的人物プラティニに集まるなか、私はワールッドカップの伝説的な英雄の姿を認めて胸をときめかせた。ジュスト・フォンテーヌ。58年スウェーデン大会にすい星のように登場し、六試合で13ゴールという不滅の記録を残した得点王だ。
「フランス大会」のひとつの売り物は、フランスご自慢の高速鉄道TGV。そのネットワークを全土にはりめぐらせて大会運営をするというものだった。そのパネルの前にいたフォンテーヌ氏に、私は写真を1枚撮らせてほしいと頼んだ。
サッカーを知らない人ならそのへんのおじさんかと思いそうな気楽さで、彼は快く引き受けてくれた。そして撮り終わると、思いがけないことを言った。
「写真ができたら、1枚送ってくれないか」
フランス人の専門のカメラマンもたくさんいるなかで、なぜ小さなカメラを1台もっているだけの私にそんなことを言うのか、不思議だったが、帰国するとすぐに1枚プリントして指定された住所に送った。
彼からは丁寧な礼状が届き、2年後のヨーロッパ選手権(スウェーデン)で再会したときには「TGVとワールドカップ13ゴール。2つの世界記録」と刻んだ見事なバッジのセットをプレゼントしてくれた。当時、TGVは時速515キロの世界最高速度記録をもっていたのだ。
あの出会いから8年。ワールドカップ初出場を決めた日本の「デビュー戦」がトゥールーズでのアルゼンチン戦であることを知ったとき、私は不思議な因縁を感じた。
トゥールーズこそ、フォンテーヌ氏の「ホームタウン」だった。彼が私にわざわざ写真を送ってくれと頼んだのは、98年のワールドカップ開催が決まれば、トゥールーズまでTGVが開通することになっていたからだった。だからTGVの敷設計画のパネルの前での写真をほしがったのだ。
以来、トゥールーズと聞くと、フォンテーヌ氏の優しい笑顔を思い出すようになった。
トゥールーズはフランスの宇宙航空産業の中心地として知られている。フランスの航空機の歴史はこの町から始まり、絵本「星の王子さま」で有名な作家サンテグジュペリが、郵便飛行機のパイロットとして活躍した場所でもある。
市営のミュニシパル・スタジアムは第二次大戦後すぐ建設され、今回大きく改装されてワールドカップ開幕を待っている。はじめは陸上競技場だったが、現在はトラックの部分にも観客席が設けられ、3万7000人の球技専用競技場だ。
この町の特徴はラグビーもサッカーと同じような人気をもっていることだ。スタジアムはサッカーとラグビーのクラブが共用し、ともに市民の大きな誇りになっている。そして、サッカークラブ「トゥールーズFC」は、日本にきた初めてのフランスクラブ(84年)でもある。
そのトゥールーズに、今週の日曜日には濃い青の日本代表のユニホームがあふれる。トゥールーズにとっては11日のカメルーン×オーストリア戦(B組)に次ぐ2試合目。あのワールッドカップ得点王フォンテーヌ氏が待つ「バラ色の町」で、日本サッカーの歴史に新しいページが刻まれる。
(1998年6月8日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。