サッカーの話をしよう
No.238 ミラン・レシツキ 日本にいる名監督
「現在の世界では、60から70もの国の代表チームが近いレベルにある」
「ブラジルやフランスを除いての話ですね」
「いや、ブラジルもフランスもその一団のなかだ。たとえばスロバキアの代表チームは、ブラジルやドイツを破る可能性をもっている。と同時に、キプロスやマルタに負けても不思議ではない。そして日本ももちろん、そうした60、70の国のひとつなんだよ」
ミラン・レシツキさん(53)は熱っぽく語った。国境を越えて指導者が動き、選手が動き、そしてテレビを通じて情報はあっという間に世界の隅々にまで伝わる。もはやサッカーに秘密はなく、世界のレベルは年を追うごとに差が縮まっているという。
レシツキさんは、中央ヨーロッパのスロバキア共和国でナンバーワンのサッカーコーチだ。93年1月に「チェコスロバキア」が分離してできた国のひとつが首都をブラチスラバに置くスロバキア。レシツキさんは分離前のチェコスロバキア代表チームのヘッドコーチを長年務め、分離後はスロバキアのUー21(オリンピック)代表チームの監督を四年間務めてきた。
そのレシツキさんと会ったのは、9月中旬、東京の渋谷でのことだった。レシツキさんは、ことしの3月から渋谷の住人なのだ。
昨年11月、ヨーロッパUー21選手権の予選が終わった後、レシツキさんは監督を辞任した。そして以後マスメディアにも一切顔を出さなくなった。サッカー記者たちがようやくこのスロバキア一のコーチの所在を確認したのは、ことし3月、東京でだった。
実は、外務省に勤める妻のダニエラさんが、領事として在東京のスロバキア大使館に着任することになり、レシツキさんもいっしょについてきたのだ。
「25歳のときにコーチになって以来、30年間近く働き続けてきた。だから、ちょうどいい休暇だと思ったんだ」
レシツキさん夫妻には男女ふたりの子供がいるが、いずれも成人し、すでに結婚もしている。サッカーのコーチとして、1年の3分の1以上家を空けていたので、妻が外国に赴任するならついていって、しばらく「主夫」になるのも悪くはないと思ったのだ。
しかし来日して半年、仕事がない生活というのが苦痛になってきた。15歳のときに1部リーグのクラブでプレーを始めて以来、ずっとサッカー漬けだった。サッカーはレシツキさんの人生そのものだったのだ。
ワールドカップは、東京の自宅の居間で見た。
「日本はよく動き、技術はすばらしかったし、戦術も申し分なかった。足りなかったのは経験。岡田監督は非常にクレバーだと感じたが、プレーをするのは選手。選手の国際経験が足りないのは明白だった」
ワールドカップが終わると、スロバキアの記者たちは毎日のように電話してきて「なぜあなたが日本代表の監督にならないのか」と聞いた。ヨーロッパでも有数の名コーチが東京にいるのに、日本は何をしているのかと。しかしレシツキさんの存在は、日本ではまったく知られていなかった。
妻のダニエラさんの任期は4年ないし5年間だという。レシツキさんが日本でまとまった仕事をする時間はたっぷりある。
「日本のサッカーの将来は非常に明るい。そして私には、その発展に寄与する力があると思う。できれば、日本で監督(コーチ)として働きたい」
不思議な縁で日本にきたレシツキさん。その縁が日本サッカーとどう交差するのか。ひょっとすると、近い将来にJリーグの監督になっているかもしれない。
(1998年9月30日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。