サッカーの話をしよう
No.245 ラモスと都並 地道な指導者修行を
ヴェルディ川崎のラモス瑠偉選手が引退した。先日の柏レイソル戦が最後の試合だった。
現役生活を終えることを、サッカーでは「シューズを壁に掛ける」と表現する。ラモスは柏スタジアムのピッチの上で文字どおりサッカーシューズを脱ぎ、自分の意思を示した。
77年に来日、79年に日本リーグ一部にデビューして以来、ずっと日本のトップスターだった。所属の読売クラブを日本リーグの不動の王者に押し上げ、93、94年と連続してヴェルディ川崎にJリーグのチャンピオンシップをもたらした。日本リーグ時代から通算して347ものトップリーグの試合に出場。78得点という数字以上に大きな働きをしてきた。
89年には日本国籍を取得。ブラジルから帰国したカズ(三浦知良)とともに90年に日本代表入りして意識革命を起こす。
負けぐせがついていた当時の日本代表に、戦う姿勢と誇りをもたらしたのは、ラモスの猛烈な闘志だった。そして94年ワールドカップにチャレンジした「オフト日本代表」の中核となった。日本リーグからJリーグへ、アマチュアへからプロへ、日本サッカーの大きな転換期の橋渡し役として、ラモスほど大きな貢献をした選手はいない。
ラモス引退の前週には、読売クラブ、ヴェルディ川崎からアビスパ福岡、ベルマーレ平塚、そして日本代表でファイトあふれるプレーを見せ続けた都並敏史選手も最後のゲームをプレーした。小野伸二(浦和レッズ)を筆頭に若い力の台頭で沸いた98年は、同時に、日本のワールドカップ出場を見届けた大ベテランたちが、静かにシューズを壁に掛けた年でもあった。
うれしいのは、こうして「ひと仕事終えた」選手たちが、コーチの道にはいろうとしていることだ。ラモスも都並も、すでにことし日本サッカー協会公認の「C級」コーチライセンスの資格を取得するための講習を受講しており、資格取得後はJリーグの監督ができる「S級」を受講することも可能だ。順調にいけば、数年後年には「ラモス監督」「都並監督」の姿が見られるかもしれないのだ。
しかし私はここでふたりに敢えて厳しい注文をつけたい。選手とコーチ・監督はまったく別のもの。ふたりとも「一からスタート」の気持ちでやってほしいということだ。
Jリーグの監督、さらに日本代表の監督を目標とするなら、「コーチとしての実力」を証明しなければならない。クラブのユースチームや地域リーグチームなど、下のレベルから始め、実績をあげて実力を示さなければならない。選手経歴と名声だけで自動的にいいコーチ・監督になることはできないからだ。
もちろん、Jリーグと日本代表の最前線で厳しい戦いをしてきた経験と、抱き続けてきたサッカー哲学や技術・戦術論は、コーチになっても大きな支えになるに違いない。しかしそれはコーチ・監督としての成功を保証してくれるものではないのだ。
テレビで試合解説をするのもいい。外国へ短期の見学に行くのも悪くはない。しかしそれは、コーチとしては「失業」状態であることを忘れてはならない。そうした状態で何年過ごしても、コーチとしての経験を積むことはできない。
ラモスも都並も、日本のサッカーにとっては「宝」といってもいい存在だ。だからこそ、来年、彼らが華やかさから遠く離れた練習グラウンドで若い選手たちと汗を流し、コーチとして地に足をつけたスタートを切っていてほしいと願わずにはいられない。
(1998年11月18日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。