サッカーの話をしよう
No.248 天皇杯決勝 「チームになった日」
「君たちはチームだった」
「日本サッカーの父」といわれるデットマール・クラマーさん(ドイツ)が、68年メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得した日本代表チームにこう話したとき、当時代表チームのコーチをしていた岡野俊一郎さん(現在日本サッカー協会会長)は、万感の思いを禁じることはできなかったという。それは、最大級の賛辞だったからだ。
快晴に恵まれた元日の天皇杯決勝、横浜フリューゲルスと清水エスパルスの対戦は、日本のサッカー史上に残るすばらしい試合となった。試合後、惜しくも敗れたエスパルスのスティーブ・ペリマン監督は、胸を張ってこう語った。
「私たちはチームだった。そしてフリューゲルスも、困難な状況のなかでチームになった」
98年は、日本サッカーにとって大きな試練の年となった。93年のJリーグ誕生と狂乱といっていいサッカーブーム。その勢いで97年のワールドカップ予選突破までこぎつけたが、記念すべきワールドカップ初出場の98年の後半は、Jリーグクラブの経営危機の話題であふれた。
そのなかで、97年末にクラブ運営会社が破綻し新会社に運営を移管した清水エスパルスが、厳しい環境下にかかわらず高いレベルのサッカーを実現し、シーズンを通じて好成績を残したのは印象的だった。
クラブ経営の徹底的な合理化を図ったエスパルスは、登録選手数わずか24人でスタートし、負傷者などが出て選手不足になると、高校生年代の「ユース」の選手を使ってしのいだ。
11月まで指揮をとったオスバルド・アルディレス前監督は、すばやいパスを主体にしたスタイルを確立し、時間かせぎや審判への抗議を厳しく禁じてサッカーに集中するよう求めた。
「それが、あらゆる面でプレーを楽しむことに結びつき、常に向上心をもって成長することができた」と、ペリマン現監督は語る。そうしてエスパルスは見事な「チーム」になった。
天皇杯決勝戦のハーフタイムに、ペリマン監督は選手たちにこう話している。
「とてもいいプレーができている。お互いのためにプレーしている」
どんなに優れた個人がいても、チームとして戦うことができなければ勝つことはできない。サッカーはチームゲームだからだ。
ピッチの上にいる11人がひとつの目的の下に力を合わせ、自分のためでなくチームの勝利のためにプレーする。こうしようと決めたことを厳しく実行に移し、あらゆる意味で一丸となってプレーする。
簡単なことではない。いやむしろ、非常に難しいことなのだ。
技術を磨き、戦術を徹底するだけでは、「チーム」にはなれない。そのうえに、全員が心から「チームのために戦う」という意識を貫かなければならないのだ。味方を信じて走り、サポートに寄る。ミスがあったらすぐカバーにはいる。こうしたプレーを全員が90分間続けられる「チーム」をつくることこそ、サッカーの最大の目標なのだ。
それを実現できたときには、本当にすばらしいサッカーが生まれる。そうした本物の「チーム」のプレーは、見る者たちに理屈抜きの感動を与える。
だからこそ、「君たちはチームだった」という言葉が最大の賛辞なのだ。
99年も厳しい年であることに変わりはない。私たちは、日本サッカーという「チーム」のために、心と力を合わせなければならない。そして西暦が2000年にはいるとき、心からこう言いたいと思う。
「私たちはチームだった」
(1999年1月6日)
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