サッカーの話をしよう
No.249 高校サッカーに欠ける「ノーサイド」精神
東福岡高校の2年連続優勝で幕を閉じた全国高校サッカー選手権。大会前には「ことしは不作」という声も聞かれたが、終わってみれば、例年にも増して楽しめる大会だった。
「不作」というのは、ビッグスターがいないという意味だったのだろう。しかし非常にしっかりと訓練されたチームがいくつもあり、個人技術の高さがチーム戦術によって生き生きと発揮されていたのはすばらしかった。ビッグスターはいなくても、高校年代のサッカーが年ごとにレベルアップしていることが確認できた大会だった。
ただしそれは、キックオフから試合終了までのフィールドの中のことだけだった。大会の運営には、相変わらずいくつもの問題点があった。そのなかでも「これだけはやめてほしい」と思うのが、試合後のセレモニーだ。
80分間の熱気あふれる試合が終わり、勝負がつくと、勝ったチームはセンターサークルに並び、校歌が流されるなか校旗が掲揚されるのを晴れやかな表情で見上げる。その一方で、負けたチームは、寒風のなかタッチラインの外に並ばされ、相手チームの校歌を聞かなければならない。
なぜこのようなことが必要なのだろうか。高校野球でやっているからというのは理由にはならない。サッカーの大会であるのに、そこには、サッカーというスポーツのしきたりも、内在する精神のかけらもない。
「ノーサイド」という言葉がある。ラグビーでよく使われるが、ラグビー用語ではない。イングランド生まれのスポーツの、基本的で最も重要な精神のひとつを表すものとして、広く用いられている。もちろん、サッカーも例外ではない。
「サイド」とは「チーム」のこと。「オフサイド」(チームから離れてしまっているという意味の反則)で使う「サイド」と同義だ。
試合中は2つのチームに分かれて勝利を争っている。しかしいったん試合が終了したら、チームの区別はなくなり、いっしょにスポーツを楽しんだ仲間だけが存在する。だから試合終了は、すなわち「ノーサイド(もうチームは存在しない)」なのだ。
中田英寿選手が出場するイタリアのセリエAの試合を見た人なら気がついたかもしれない。レフェリーが試合終了のホイッスルを吹いたら、選手たちはチームの別なく握手し、そのままロッカールームへと引き上げていく。これが、サッカーのしきたりのひとつであり、このスポーツとともにイングランドから運ばれてきた「ノーサイド」の精神なのだ。
各国代表チーム同士の国際試合では、国歌を吹奏する。しかしそれは試合前に限られ、しかも両国の国歌を同じように吹奏する。これもまた、もうひとつのサッカーのしきたりだ。
しかし試合後は、たとえワールドカップ決勝で優勝チームが決まった後であっても、公式セレモニーのなかで優勝国の国歌が吹奏されることはない。すでに「ノーサイド」だからだ。
全国高校サッカー選手権は、全国高等学校体育連盟(高体連)の大会であり、高校教育の一環と位置づけられている。サッカーを「教材」として使うなら、そのしきたりを尊重し、その背後にあるスポーツの精神をも伝えるのが、本当の教育であると私は思う。
郷土愛を鼓舞し、愛校精神を育てるための校歌なら、サッカーのしきたりにならって、試合前に両校のものを吹奏すればいい。
試合後、何の制約もなければ、選手たちが互いに健闘をたたえ合う、スポーツの精神を体現する美しいシーンだけが残るはずだ。
(1999年1月13日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。