No.255 ダイレクトプレーのメッセージ

 「ダイレクト・プレー」という戦術面の用語がある。
 少し前までは、ボールを止めずにパスやシュートをするプレーの意味で使われていた。いまも、そのように使っている人が多い。しかし若い世代のコーチたちは、まったく違う意味で同じ用語を使っている。それが最近、テレビ中継でも解説者の口から出るようになってきた。
 「よけいな回り道をせず、できるだけシンプルに、フィニッシュから逆算してプレーを組み立てていく考え方。プレーのプライオリティ(優先順位)が非常に重要視される。ポゼッション・プレーはこの反対」
 『強化指導指針1998年版』で、日本サッカー協会は「ダイレクト・プレー」をこのように定義している。
 サッカーのプレーの目的はゴールである。すべてのプレーは、ゴールをめぐる攻防から始まる。だから攻撃は、ゴールを得るためのシュートからさかのぼって考えてみる必要がある。

 たとえば味方GKがボールをもったとき、大きくけり、FWがそれを追ってシュートできればOKだ。中盤の組み立て、センタリングやスルーパスは、本来の目的からいえば、必ずしも必要なプレーではない。まず直接的(ダイレクト)にゴールに向かっていくプレーを企図するのが、いい攻撃なのだ。
 実際の試合では、相手は必死に妨害するので、こんなに簡単にはいかない。だからパスをつないで攻めを組み立てる。サイドを切り崩してセンタリングから、あるいはスルーパスで味方を突破させて、シュートを狙う。
 しかしこうしたプレーばかりにとらわれていると、本来の目的を忘れ、直接的にゴールを狙えるチャンスがあっても見逃してしまう。だからまず直接的な攻撃プレーを意識しようというメッセージが、「ダイレクト・プレー」には込められている。
 これまで別の意味で広く使われていた言葉だった。しかしそれはいわゆる「和製英語」で、国際的には通用しない。以前の意味をもつ言葉としては、「ワンタッチ」を使用するようにと、『指針』は推奨している。

 『指針』があげている合計77の技術・戦術用語には、困ったものも多い。
 その原因は、あまりに安易に英語を使っている点にある。特定の外来語を、深い考えがあって普及させようというのは悪いことではない。しかし私たちはあくまで日本語で意思の疎通をはかる国民であることを、忘れてはならないだろう。
 「アンティシペーション」(予測)、「インプロビゼーション」(即興性、ひらめき)、「スプレッド」(広がり)など、簡単な日本語で表せるものを、わざわざなじみのない日本語にする意味はない。これでは、重要なメッセージを込めて送り出した「ダイレクト・プレー」までが力を失ってしまう。
 かつて、東京オリンピックのころまでの日本のサッカーは、「ダイレクト・プレー」一辺倒だった。大きくけってなだれ込むようなサッカーだった。

 世界に追いつくためには、個人技を高め、パスをしっかりとつなげるようにならなければならない。そうやって30年間以上努力してきた。その結果、技術は世界の水準に迫ったが、逆にゴールに向かっていく迫力に欠けるという欠点が目立ってきた。「ダイレクト・プレー」の強調は、そうした時代のなかで大きな意味をもっている。
  「ポゼッション・プレー」(チームでボールを保持し続けることを重視したプレー)自体が悪いわけではない。その能力を身につけることの重要性は、少しも失われてはいない。しかし現在の日本サッカーが、「ダイレクト・プレー」のメッセージを強く必要としている状況であることは間違いない。

(1999年2月24日)

No.254 アーセン・ベンゲル フェプレーの信念

 「あの2点目は、スポーツ的な観点で正しいものではなかった。私たちは、試合やり直しの提案をしたいと考えている」
 試合直後、アーセナルのベンゲル監督の口から、驚くべき言葉が発せられた。
 
 「事件」は先週土曜日にロンドンで行われたイングランドのFAカップ5回戦、アーセナル対シェフィールド・ユナイテッド戦で起こった。
 王者アーセナルが下部リーグのシェフィールドに苦戦し、1−1で迎えた後半30分。アーセナルのゴール前でシェフィールドのMFモリスが倒されるが、ジョーンズ主審はプレー続行を指示、アーセナル大きくけり返す。しかしモリスが起き上がらないのを見たシェフィールドのGKは、ボールをタッチラインの外にけり出す。
 モリスの手当てが済み、スローインで試合再開。アーセナルのMFパーラーがシェフィールドのGKに向かってゆるいボールを投げる。世界のどこでも行われている常識的な行為だ。
 異常なことが起こったのはその直後だった。アーセナルのナイジェリア人FWカヌが突然ダッシュしてこのボールを受け、中央へパス。観衆もシェフィールドの選手も、そしてアーセナルの大多数の選手もがあっけにとられるなか、パスを受けたFWオフェルマルスが楽々とゴールにけり込んでしまったのだ。
 一瞬の間を置いて、ゴールインの合図をするジョーンズ主審。猛然と抗議するシェフィールドの選手たち。ブルース監督は一時は選手の総引き上げを指示するポーズも見せたが、6分間の中断の後、試合は再開され、結局2−1でアーセナルが勝ち、準々決勝進出を決めた。
 
 この結果を覆したのが、冒頭のベンゲル監督の発言だった。試合終了が告げられると、即座に再試合を申し出たのだった。
 「不運な出来事だった。だが私たちは、ズルをしようと望んだわけではないんだ。カヌは移籍したばかりで、あの状況が理解できなかったのだと思う」
 96年オリンピック優勝の英雄カヌは、イタリアのインテルから移籍し、この試合がアーセナルでのデビュー戦だった。
 イングランド協会も即座に動いた。デービス専務理事代行とアナブルFAカップ委員会委員長が協議し、わずか1時間後には、2月23日に再試合を行うことが発表されたのだ。
 負傷者の手当てのため、敵味方を問わず意図的にボールを出す行為、そしてその後のスローインを相手に返す行為は、選手相互の善意に基づいた「慣習」である。ルールで決められたものではない。
 カヌとオフェルマルスのプレーを見て、いちばん驚いたのはジョーンズ主審だったかもしれない。しかしルール上は、得点を認めるしかないというのが、彼の判断だったのだろう。それはそれで正しいと思う。
 
 プロにとって、勝利は何よりも優先させなければならないものだ。しかしひとりのスポーツマンとして、ベンゲル監督はこのゴールで勝利を得ることを望まなかった。そして自らの信条に従って試合を「振り出し」に戻す勇気が、彼にはあった。
 ルール第5条には、「プレーに関する事実(得点および試合結果を含む)についての主審の決定は最終である」という明確な規定がある。しかしこの前例のないケースに、イングランド協会には敢えてルールを適用せず、フェアプレーの観点から再試合を決定した。
 日本でこんな事件が起こったら、どうだっただろう。監督やクラブはどういう態度をとっただろうか。そして協会は?
  ベンゲル監督の信念と行動は、私たち日本のサッカーにも、スポーツとは何かをしっかり考えて行動することを要求しているように思えてならない。

(1999年2月17日)

No.253 チューブ駅「アーセナル」の話

 初めてロンドンにいったとき、地下鉄に乗れなくて往生したことがある。
 「地下道」の入り口はあっても、「地下鉄」は見あたらない。必死に「サブウェー」を探したのだが、それはアメリカ英語で、イギリスでは地下鉄を「アンダーグラウンド」と呼ぶことを、私は知らなかったのだ。
 実は、ロンドンの地下鉄は、もうひとつ名前をもっている。「チューブ」。夏に活躍するグループではない。トンネルのなかを走る電車だからだ。現在では、この呼称が最も一般的だ。そのチューブのひとつの駅名が、きょうの話題だ。
 「アーセナル」。日本でもおなじみのベンゲルが監督を務める名門クラブの名。その名のとおり、アーセナルFCのホームスタジアムへの最寄り駅が、チューブ・ピカデリー線の「アーセナル」駅なのだ。

 ロンドンには現在6つのプレミアリーグ・クラブがある。だが地区名をとったウィンブルドン以外では、クラブ名がチューブの駅名になっているのはアーセナルだけだ。この駅は1932年までは「ギレスピー・ロード」と呼ばれていた。それが「アーセナル」に変わった裏には、名将とうたわれたひとりの監督の卓抜したアイデアがあった。
 ハーバート・チャップマン監督は、革命的な「WMシステム」を考案し、30年代に無敵のアーセナルをつくった人。だが、彼のアイデアはグラウンド内にとどまらなかった。次つぎとクラブ経営の画期的アイデアを考案したのだ。そのひとつが、最寄りのチューブ駅名の変更だった。クラブの存在をアピールし、より多くの観客を集めるためのアイデアだった。
 ロンドンの交通局も議論の末に了承し、アーセナルは、まったくただで大きな宣伝効果を得ることになった。翌33/34年シーズン、アーセナルは1試合平均4万1000人の記録的な観客を集め、スタンドの改装に大金を使いながら大きな利益を計上したのだ。

 チャップマンはまさにアイデアの人だった。選手の背中に番号をつけることも、白いボールを使うことも、そして夜のゲームを中心にしようという提案も、すべて彼のものだった。どのアイデアも、観客によりいっそうサッカーを楽しんでもらい、アーセナルをあらゆる面で成功したクラブにすることが目的だった。
 Jリーグでは、川淵チェアマンが「身の丈にあった経営を」と説いている。出資企業からの大きな援助が見込めないベルマーレ平塚は、昨年の入場料収入をベースに今季の予算をたてた結果、主力選手の大半を放出せざるを得なかった。
 たしかに、これまでのクラブ経営は、企業からの援助に甘えて足元が見えていなかった。しかしだからといって、足元だけを見ていればいいのか。「これだけしか収入が見込めないから」という姿勢の経営なら、誰にも苦労はいらない。

 経営者やスタッフが知恵を絞れば、アイデアはいくらでも出てくるはずだ。プロの名に値するチームを維持するために選手にある程度の年俸を払う必要があるなら、その資金をかせぐアイデアをひねり出すのが経営者の仕事ではないか。
 小口でも新スポンサー獲得のために、パンツやストッキングに企業名を入れてもいい。リーグ規約を変更すれば済む。観客を呼ぶためのアイデアも、それこそ際限なくあるはずだ。
 日本におけるプロサッカーの市場は、まだまだ無限の可能性をもっている。宝の山の上で居眠りしているような経営ではだめだ。周囲の人々までウキウキしてくるような、アイデアあふれるクラブ経営が、いまほど求められるときはない。

(1999年2月10日)

No.252 どのチームもピッチに出るのは11人

 1年前には9位という信じがたいポジションまで上がっていた「FIFA(国際サッカー連盟)ランキング」の最新の発表で、日本は33位に後退した。
 長年の調査検討の末、FIFAが初めてランキングを発表したのが93年8月。以来、このデータはワールドカップ予選や決勝大会でのシード分けに活用されてきた。しかしこれが正確に実力を反映しているわけでないことは、誰の目にも明らかだった。
 そこで今回、FIFAはランキングの元となるポイント制を全面的に見直し、新基準をつくった。8年間の試合結果を取り入れて過去2回のワールドカップ成績を大きなポイントとし、同時に弱小チームとの対戦結果は参考にしないことにしたため、日本は前月のランクから13位も下がり、33位になったのだ。

 「まあ、この辺か」と思う。ワールドカップ出場が32チームなのだから、悪いポジションではない。
 「ワールドカップが、1つの国から1チームの大会でよかった」
 大会のたびに、こんなばかげたことを考えてしまう。ワールドカップが、もし1カ国から何チームでも出場できるような大会だったら、ベスト4はすべてブラジルということになってしまうかもしれない。
 日本もブラジルも出場は同じ1チーム。チームスポーツでは当然のことだが、公平さと不公平さが同居しているようで興味深い。
 同じようなことが、サッカーチームそのものでも言うことができる。
 サブにまで世界的なスターをかかえる超ビッグクラブのレアル・マドリード(スペイン)が、ワールドカップ代表などひとりもいないブラジルのボタフォゴに苦しめられたのは、昨年のトヨタカップだった。小さなクラブが大きなクラブを倒すのは、けっして珍しいことではない。

 選手層からすれば大差がついても当然の試合で、なぜそんなことが起きるのか。それは、どんなにたくさんスターがいようと、試合に出場するのはどのチームも同じ11人だからだ。
 勝敗は総力戦で競うわけではない。どちらのチームも、11人の選手を選び、その選手だけがピッチのなかでプレーに参加する。そこが、スポーツが戦争と違う最大のポイントなのだ。
 3月6日の開幕を目指して、Jリーグの各クラブが本格的な準備にはいっている。横浜フリューゲルスの解散などで選手が大きく動いた今季のシーズンオフ。横浜F・マリノス、名古屋グランパスのように戦力を上げたチームがある一方、戦力面で心もとなく見えるチームがある。

 ヴェルディ川崎とベルマーレ平塚は、ともにクラブ経営の事情から昨季までの主力選手を大量に放出し、まるで新チームのような布陣となった。大スターを補強したわけでもない。これまでチャンスに恵まれなかった若手の成長にかけてみようという姿勢だ。
 あまりに大きく変わった顔ぶれに、ファンやサポーターは心配になるかもしれない。選手たち自身にも、「こんな戦力で1シーズン戦い抜けるのかな」と不安が広がっているかもしれない。しかしそれは間違いだ。
 逆に、大型補強をしたチームは、それだけで戦力が上がったと思っているかもしれない。昨年上位にいたチームに日本代表が3人も加われば、優勝して当然と思う人もいるかもしれない。それも大いなる幻想というものだ。
 試合は11人対11人で行うものだ。そして勝負をは、ピッチの上に出ている11人が、心と力を合わせることができるかどうかにかかっているからだ。

(1999年2月3日)