サッカーの話をしよう
No.254 アーセン・ベンゲル フェプレーの信念
「あの2点目は、スポーツ的な観点で正しいものではなかった。私たちは、試合やり直しの提案をしたいと考えている」
試合直後、アーセナルのベンゲル監督の口から、驚くべき言葉が発せられた。
「事件」は先週土曜日にロンドンで行われたイングランドのFAカップ5回戦、アーセナル対シェフィールド・ユナイテッド戦で起こった。
王者アーセナルが下部リーグのシェフィールドに苦戦し、1−1で迎えた後半30分。アーセナルのゴール前でシェフィールドのMFモリスが倒されるが、ジョーンズ主審はプレー続行を指示、アーセナル大きくけり返す。しかしモリスが起き上がらないのを見たシェフィールドのGKは、ボールをタッチラインの外にけり出す。
モリスの手当てが済み、スローインで試合再開。アーセナルのMFパーラーがシェフィールドのGKに向かってゆるいボールを投げる。世界のどこでも行われている常識的な行為だ。
異常なことが起こったのはその直後だった。アーセナルのナイジェリア人FWカヌが突然ダッシュしてこのボールを受け、中央へパス。観衆もシェフィールドの選手も、そしてアーセナルの大多数の選手もがあっけにとられるなか、パスを受けたFWオフェルマルスが楽々とゴールにけり込んでしまったのだ。
一瞬の間を置いて、ゴールインの合図をするジョーンズ主審。猛然と抗議するシェフィールドの選手たち。ブルース監督は一時は選手の総引き上げを指示するポーズも見せたが、6分間の中断の後、試合は再開され、結局2−1でアーセナルが勝ち、準々決勝進出を決めた。
この結果を覆したのが、冒頭のベンゲル監督の発言だった。試合終了が告げられると、即座に再試合を申し出たのだった。
「不運な出来事だった。だが私たちは、ズルをしようと望んだわけではないんだ。カヌは移籍したばかりで、あの状況が理解できなかったのだと思う」
96年オリンピック優勝の英雄カヌは、イタリアのインテルから移籍し、この試合がアーセナルでのデビュー戦だった。
イングランド協会も即座に動いた。デービス専務理事代行とアナブルFAカップ委員会委員長が協議し、わずか1時間後には、2月23日に再試合を行うことが発表されたのだ。
負傷者の手当てのため、敵味方を問わず意図的にボールを出す行為、そしてその後のスローインを相手に返す行為は、選手相互の善意に基づいた「慣習」である。ルールで決められたものではない。
カヌとオフェルマルスのプレーを見て、いちばん驚いたのはジョーンズ主審だったかもしれない。しかしルール上は、得点を認めるしかないというのが、彼の判断だったのだろう。それはそれで正しいと思う。
プロにとって、勝利は何よりも優先させなければならないものだ。しかしひとりのスポーツマンとして、ベンゲル監督はこのゴールで勝利を得ることを望まなかった。そして自らの信条に従って試合を「振り出し」に戻す勇気が、彼にはあった。
ルール第5条には、「プレーに関する事実(得点および試合結果を含む)についての主審の決定は最終である」という明確な規定がある。しかしこの前例のないケースに、イングランド協会には敢えてルールを適用せず、フェアプレーの観点から再試合を決定した。
日本でこんな事件が起こったら、どうだっただろう。監督やクラブはどういう態度をとっただろうか。そして協会は?
ベンゲル監督の信念と行動は、私たち日本のサッカーにも、スポーツとは何かをしっかり考えて行動することを要求しているように思えてならない。
(1999年2月17日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。