サッカーの話をしよう
No.256 ブラジル・サッカーの父は英国人
昨年のワールドカップ決勝ではフランスに完敗を喫したものの、現在も世界一のサッカー大国として君臨するブラジル。日本のサッカーは、1970年代以来その大きな影響を受け、多くのものを学んできた。
ことしは、J1とJ2を合わせて35人ものブラジル人選手が登録されている。監督こそ減ったが、フィジカルコーチなど、日本のサッカーは多くの人材をブラジルに負っている。
そのブラジル・サッカーの黎明期をリードし、手本になったのが、イングランドをはじめとした英国人たちだった。
今日、ブラジルとイングランドのサッカーは、プレーの質の面でも、哲学の面でも、まったく対照的のように見られている。しかしよちよち歩きのブラジル・サッカーの成長に決定的な役割を果たしたのは、間違いなく英国人たちだったのだ。
ブラジルにサッカーをもたらしたのは、チャールズ・ミラーという英国人。スコットランド出身の鉄道技師の長男として1874年にサンパウロで生まれたミラーは、9歳になると英国式教育を受けるために南イングランドの寄宿学校に送られる。学校で彼はいろいろなスポーツに親しんだが、何より彼の心をとらえたのはサッカーだった。
この学校にいた十年間のうちに、彼は南イングランドで有数のFWとなり、同時に、地域の協会の役員としても活躍した。そして1894年にブラジルに帰国したとき、彼は2個のサッカーボールを旅行カバンのなかに入れていた。ブラジル・サッカーの歴史は、まさにこの2個のボールから始まったのだ。
ミラーは帰国するとすぐにクラブをつくり、数年後にはサンパウロのリーグ戦、1901年にはリオデジャネイロとの対抗戦を組織した。リオでも、サッカーをリードしたのは、ミラーのような留学帰りの英国系の人びとだった。
1910年、イングランドから新たな波が押し寄せる。名門アマチュアクラブ「コリンシャンズ」が遠征し、5試合して全勝したのだ。総得点30、総失点わずか5。彼らがまだサンパウロに滞在している間に新しいクラブが創設された。ミラーの助言により、新クラブは「コリンチャンス」と名付けられた。
1910年代にサッカーはブラジル全土に広まっていく。そしてそのなかから黒人選手が登場する。英国系のクラブでは黒人は排斥されたが、ブラジル人が主体となったクラブでは、少しずつ黒人選手が起用されていく。1923年、リオのバスコ・ダ・ガマがリオの1部リーグに昇格して1年目で優勝を飾る。そのチームのレギュラーの半数が黒人だったことが、時代を動かす大きな力となった。
1914年に勃発した第一次世界大戦と戦後の不況で、この時代にはイングランド・サッカーからの影響は年ごとに薄れ、代わって黒人たちの即興性に富んだプレーがブラジル・サッカーを特色づけていく。
1933年にプロ化。そして1938年ワールドカップで世界に衝撃を与える。この年、ブラジルは伝説の名手レオニダスの芸術的なプレーをひっさげて3位に躍進した。以来、ブラジルはワールドカップのプリマドンナとなり、世界でも特別の地位を築いたのだ。
日本のサッカーは、英国人の手で紹介され、学生の間で広まり、ビルマ人留学生にキックを教わり、そしてドイツ人コーチの手で近代的な技術が導入された後、ブラジルからの強い影響を受けて今日に至っている。
世界のサッカーは、互いに影響を与えつつ発展してきた。チャールズ・ミラーをはじめとした無数の人びとの情熱は、いま日本で、Jリーグの新シーズン開幕として、新たな花を開かせようとしている。
(1999年3月3日)
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