サッカーの話をしよう
No.260 サッカーを政治に利用されないための常識を
先週末のJリーグは話題満載だった。
鹿島アントラーズ、ジュビロ磐田という優勝候補が、主力放出で大きく戦力ダウンしたと見られるヴェルディ川崎とベルマーレ平塚に苦杯を喫し、横浜Fマリノスもアビスパ福岡に敗れた。そのなかで、ドラガン・ストイコビッチのひとつの行動も大きな話題になった。
前日ヨーロッパから戻ったばかりで90分間フル出場し、名古屋グランパスを勝利に導いたストイコビッチは、後半、絶妙なパスを送って同僚の福田健二がゴールを決めたのを見届けると、テレビカメラに向かって走りながらユニホームのシャツをたくし上げた。そしてその下に着ていた白いTシャツに手書きしたメッセージを示した。
「NATOよ、攻撃を止めろ」
もちろん、祖国ユーゴスラビアに対するNATO軍の空爆に対する抗議だ。
同じ日、浦和レッズのMFゼリコ・ペトロヴィッチもまた、自らの手で書いた同様のメッセージを、同点ゴールの後にシャツを脱いでアピールした。
日本ではこれまで問題になったことはないが、FIFA(国際サッカー連盟)などの国際組織では、試合の場で政治的、あるいは個人的なメッセージを発することを禁止している。
86年ワールドカップでは、試合前の国家吹奏時に「暴力反対」などのメッセージ入りのヘアバンドを着用したソクラテス(ブラジル)が罰金を言い渡された。昨年、イングランドでは、リバプールのFWロビー・ファウラーがストライキを続ける港湾労働者への支持をアピールしてやはり処罰を受けた。
世界では、サッカーは大きな力をもった「メディア(媒体)」と認識されている。トップクラスのサッカーの場でスター選手が発するメッセージは、大きな影響力があるからだ。
その力が政治宣伝に使われ始めたら大変なことになる。スポーツと政治が無関係だというのではない。スポーツの影響力で政治に対する判断を左右するのは正しくないということなのだ。私たちの生活に直結する政治は、政治として判断しなければならない。
いかなる事情があろうと、祖国に住む家族や友人の頭上に高性能爆弾が投下されるのは許し難いことに違いない。しかしストイコビッチやペトロヴィッチは、そのメッセージを試合外で発するべきだった。試合のなかであのような行為に出るのは、間違いだったと私は思う。
しかしそうした間違いは、選手に限られたものでないことも指摘しておかなければならない。クラブや協会、そして全世界のサッカーを統括するFIFAそのものが、サッカーの社会的影響力を積極的に利用し、大きな利益を得ているからだ。
シューズやウェアのロゴマーク、ユニホームの胸の広告、プレーの背後に見え隠れする場内看板広告。これらはすべて、トップクラスのサッカーの大きな影響力を利用した商業活動にほかならない。
現状ではスポーツが商業主義から資金を得るのは仕方がない。しかし「宣伝塔」になるのは、けっしてスポーツの本来の目的ではないことを、どれだけの関係者が意識しているだろうか。その意識のなさが、スポーツが商業主義に押し流される最大の要因になっている。
個人的あるいは政治的メッセージも商業行為も、どこまでが許され、どこから許していけないか、線引きをするのは非常に難しい。しかしストイコビッチの行為を非難するだけではいけない。彼が実証したサッカーの社会的影響力を正確に把握し、スポーツ本来の目的を見失わずに、サッカーに関わる者全体で「常識」を育てていくことが大切だと思う。
(1999年3月31日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。