サッカーの話をしよう
No.271 コパアメリカに期待すること
日本代表が「コパ・アメリカ」に向けて出発した。
コパ・アメリカは、南米サッカー連盟(CONMEBOL)の公式の選手権大会であり、世界最古の国際大会でもある。
国際サッカー連盟(FIFA)の誕生は1904年。しかし各大陸別の連盟ができたのは意外に遅く、1950年代になってからだった。しかし南米では、1916年に開催された会議で連盟を創設した。会議に参加したアルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイは、同時に代表チームをブエノスアイレスに集めて国際大会を開催した。これが、「非公式」ながらコパ・アメリカの第1回大会となった。
ヨーロッパが第一次世界大戦のまっただ中の当時、南米ではサッカーの人気が急激に高まっていた。まだプロは公認されていなかったが、どの国でもスタジアムは満員になっていた。
この「非公式」の第1回大会でも、優勝をかけたアルゼンチン対ウルグアイ戦には4万もの観客がつめかけた。そして試合が始まる前に興奮したファンがスタンドを焼き払う暴動まで起こり、試合は翌日に延期された。
この大会で得点王になったのがウルグアイのFWグラディン。陸上競技の200、400メートルの南米記録保持者でもあった。そして、当時の南米サッカーでは珍しい黒人選手だった。グラディンのゴールでアルゼンチンを下したウルグアイが初代の王者となった。南米サッカーの特徴のひとつが黒人選手の才能にあることを考えれば、その兆しは最初のコパ・アメリカで芽生えていたことになる。
当初は毎年開催されていたコパ・アメリカも、2回の危機の時代を迎える。最初は1930年代。このころ、南米の各国は相次いでプロ化し、どの国でも代表チームの組織が難しくなったのだ。30年代、大会は3回しか開催されていない。
そして第2の危機が60年代。「リベルタドーレス杯」(南米クラブ選手権)が始まったのだ。ペレを擁するサントスの活躍などでたちまち人気大会となったリベルタドーレス杯の前にコパ・アメリカは影が薄くなり、67年に第28回大会がウルグアイで開催された後、8年間もの空白期間ができる。
75年にホームアンドアウェー形式で4年にいちどの大会として再出発し、87年には、再び全加盟国を1カ国に集め、2年にいちどの大会にする現行の方式をスタートした。各国が力を入れたこともあり、ヨーロッパ選手権と並ぶ権威のある大会と見なされるようになった。
93年大会からは、その輪を南米外に広げる。この年、初めてメキシコとアメリカ合衆国が招待されたのだ。もっとも、南米の人々は中北米も「同じアメリカ」という意識をもっている。ごく自然なことだったのかもしれない。97年大会にはコスタリカが招待された。
そして今回、コパ・アメリカに、初めて「アメリカ」以外の地域の国が登場する。それが日本だ。今年で20回を迎えるトヨタカップを中心とした交流を通し、日本とCONMEBOLは固い絆で結ばれている。その絆が、コパ・アメリカへの招待として結実したのだ。
日本にとっては願ってもない「真剣勝負」の舞台。2002年ワールドカップへの重要な布石だ。単なる参加者で終わってほしくない。何かを勉強してくるだけでは不足だ。徹底的に勝負にこだわり、日本サッカーがいかに進歩したかを実証してほしいと思う。93年にはメキシコが準優勝を飾り、95年にはアメリカが3位となった。招待されたチームは、けっして「お客さん」にはなっていないのだ。
世界最古の国際大会コパ・アメリカ。2002年へ向け、これほどふさわしい「スタート」の場はない。
(1999年6月23日)
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