サッカーの話をしよう
No.273 パラグアイ 情熱秘めた労働者の国
コパ・アメリカの取材でパラグアイにきている。南米での取材は10回以上になるはずだが、ここは初めてだ。
学生時代、中南米の音楽が好きで、いろいろな国の音楽を聞いた。そしてたまたま買ったレコードに、「パラグアイ音楽の玉手箱」というLPがあった。この国の音楽の代表的な楽器であるハープの軽快な響き、そして何よりも、農業国であり、「労働者の国」を誇りにする国民性に好感をもった。
その後、サッカー報道の世界にはいると、パラグアイとの出合いはほとんどなくなった。ワールドカップに出場できないパラグアイは、南米の「弱小国」のひとつにすぎなかった。
サッカーでのパラグアイとの初めての出合いは、79年ワールドユース選手権日本大会だった。パラグアイは神戸を舞台とするグループにはいり、市民有志の熱烈なサポートを受けた。MFフリオ・セサル・ロメロ、FWロベルト・カバーニャスらは、その後、パラグアイを86年ワールドカップ出場に導き、十数年にわたってパラグアイ・サッカーのリーダーとなった。
南米各地にサッカーがはいったのは19世紀の最後の10年間のことだった。パラグアイでは1896年に最初のサッカーの試合が行われた。そして「新世紀」にはいると、サッカーはこのパラグアイでも猛烈な勢いで繁殖を始める。
1901年には、体育学校の1年生と2年生の間でパラグアイ人同士の初めての試合が行われ、早くも翌年には最初のクラブであるオリンピアが誕生した。トヨタカップで来日したこともある強豪だ。
1909年パラグアイ協会設立。しかし地理的にブラジル、アルゼンチン、ウルグアイという南米サッカーの「3強」に囲まれ、国際試合では苦戦を強いられた。1930年の第1回ワールドカップに出場したものの、初戦で無名のアメリカに0−3というショッキングなスコアで敗れる。とはいっても、当時のアメリカ代表はイングランドやスコットランドの元プロで占められ、この大会で結局3位になっている。
1930年代後半には、パラグアイ・サッカーの不世出のスター、エウセニオ・エリコが登場する。ただし活躍の舞台はアルゼンチン。インデペンディエンテ・クラブのエースとして、37年には34試合で47得点というとてつもない記録を残す。ワールドカップ出場はなく、南米以外ではあまり知られていないが、ブラジルのレオニダスと並び、第二次世界大戦前の世界的な名手だった。
パラグアイが初めてタイトルを手にするのが1953年のコパ・アメリカ。その日、アスンシオンは赤・白・青の三色旗で塗りつぶされた。79年には若きロメロの活躍でコパ・アメリカで2回目の優勝を飾った。
約40万平方キロ、日本とほぼ同じ広さの国土に人口はわずか510万。パラグアイは今日も農業国であり、偉大な「労働者」の国だ。首都アスンシオンで、私たち日本の取材陣が知ったのは、パラグアイの人びとの穏やかな優しさだった。
先週金曜日の日本との試合前、町にはパラグアイ国旗や代表のユニホームがあふれた。パラグアイにとっても、重要な試合だった。しかし人びとは口々に「きょうは日本が勝つよ」と言ってほほえんだ。
熱烈にサッカーを愛することでは、南米のどの国民にもひけをとらない。しかし「農業民族」はやはり「アグレッシブさ」に欠けるのか、なんとなくおっとりしている。だがそれがパラグアイという国やその国民ののパーソナリティーなのだ。
コパ・アメリカで、「サッカー」の世界の広さと奥深さを、またひとつ知った気がした。
(1999年7月6日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。