サッカーの話をしよう
No.280 ラモス瑠偉 「長命」支えた攻守の能力
国立競技場の満員の観衆に見送られて、ラモス瑠偉が「最後のプレー」を見せた--。
Jリーグ初の公式の「引退記念試合」。あふれんばかりの友情と愛情に囲まれ、それはむしろ「感謝試合」と呼ぶにふさわしかった。21年という長期間にわたって、枯れることのない闘争心で日本のサッカーをリードしてきたラモスに、ほんの少しでも感謝の気持ちを伝えることができたのなら、こんなにうれしいことはない。
ラモスの「長命」について考えてみたい。なぜこれほどまでに長い期間、第一線でプレーを続けることができたのか。
それは、ラモスがオールラウンドな能力をもつ、サッカー選手のひとつの「理想像」だったからではないだろうか。
彼は長身で、しかも肥満とは無縁だった。すばらしいパワーとスピードの持ち主だった。選手生活の後半はケガの連続だったが、痛みにうち勝つ力をもっていた。
ボールを扱う技術には欠点がなかった。利き足は右だったが、左足でも正確にパスやシュートを繰り出すことができた。シュートは常に冷静だった。
非常に視野が広く、プレーの選択が的確だった。必要なときには、創造性を発揮して状況を打開することができた。
そして、愛情あふれる家族に囲まれて、情熱のすべてをサッカーに注ぐことができた。勝利のために体を張ることをいとわず、味方を叱咤激励して勝利に向かっていくリーダーシップの持ち主だった。
これ以上、何を望むことがあるだろうか。
若いころは破壊的な得点力をもったFWであり、後にMFに下がってゲームメーカーとなった。しかしあまり知られてはいないが、彼はDFとしても一流の能力をもっていた。
「こんどきた選手は、守備がなかなかうまいんだよ」
77年、ラモスの来日当時に読売サッカークラブで実質的な監督だった相川亮一氏から、そんな話を聞いたことがある。
この年の10月に日本リーグ2部でFWとしてデビューしてたちまち5試合で5得点の活躍を見せた後、ラモスは年末の天皇杯ではリベロとして出場し、大活躍したのだ。
ドイツの名手たちのひとつの「系譜」が思い起こされる。
70年代ベッケンバウアーから始まり、80年のシュティーリケ、90年代のマテウス、ザマーらの選手たちだ。
彼らはそろってオールラウンドな能力をもつ「サッカー選手の理想像」だった。フィジカル能力、技術、判断力、そしてリーダーシップ。そしていずれも、若いころにはMFでゲームメーカーとして活躍し、後にリベロとなった。チームの最後尾に位置し、DFの中心になりながら、積極的に中盤に進出し、ゲームメーカー役を果たした。
そして、リベロへの転身によって、彼らは選手生命を伸ばし、長い間第一線で活躍できた。
こうしたアイデアをもった監督の下でプレーすることがあったら、きっと「リベロ・ラモス」の姿が見られたはずだ。彼も、そのポジションでのプレーを心から楽しんだだろう。
ラモスはリベロに下がることなく現役を終えた。しかしこれほど長くプレーできたのは、やはり彼のもつオールラウンドな能力のおかげに違いない。
21年間、そうした能力でラモスをしのぐ選手はいなかった。引退にあたってラモスに一点の寂しさがあったとすれば、そこだったのではないか。
中田や小野の攻撃面での能力はすばらしい。しかしラモスのように、攻守にオールラウンドな能力をもった選手にどれほどの価値があるか、それをあらためて考えさせられた「引退記念試合」だった。
(1999年8月25日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。