サッカーの話をしよう
No.297 サッカーの国際化支えた航空機の発達
20世紀最後の年を迎えた。
もし1000年後に人類の歴史が書かれたら、この世紀はどういう時代として描かれるのだろうか。ふたつの「世界大戦」だろうか。テクノロジー(科学技術)が進歩し、人びとの生活が大きく変化したことだろうか。そのひとつに、「スポーツの大衆化」が挙げられるのではないかと、私は思っている。そしてなかでも、サッカーという競技の世界的広まりが指摘されるだろう。
19世紀の半ばにイングランドで生まれ、世紀末までに世界中にばらまかれたサッカー。しかしそれが本当に「世界のスポーツ」となったのは、1930年に始まるワールドカップがきっかけであり、さらに、20世紀のテクノロジーの「代表選手」のひとつである航空機の発達が、重要な要素となっている。
世界のサッカーで日常的に国際交流が行われるようになったのは、1955年にスタートしたヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現在のUEFAチャンピオンズ・リーグ)が最初だった。毎週週末に行われている国内リーグの合間、水曜日を使って行うというのが、この大会の重要なコンセプトのひとつだった。ヨーロッパは狭いとはいっても、その実現には航空機が不可欠な要素だった。
チームが短時間で移動できるようになって、初めてサッカーは本格的な国際化時代にはいる。それがやがて「テレビの時代」に迎えられ、地球規模の関心事となっていくのだ。
しかしその「航空機時代」への扉を叩いたのは、意外なことにヨーロッパではなく、南米の人びとだった。1927年6月5日、史上初めてサッカーチームを乗せた航空機がブラジル南部のポルトアレグレから飛び立った。乗客は、ECサンジョゼというサッカーチームだった。
その年に誕生したばかりのヴァリグ航空が所有する唯一の飛行機「アトランチコ号」は、ドイツ製の水上機だった。乗客の定員はわずかに9人。仕方なく、2人の役員と9人の選手だけがこの飛行機で旅行することになった。乗客のうち2人は、貨物室に乗せられた。残りの選手3人と役員1人は、2日前に船で出発していった。
ブラジル南部の6月は寒い。分厚いコートを着てきた選手たちを見て、ドイツ人パイロットのフォンクラウシュバッハは「10人しか乗せられない」と宣告した。しかしそれではその日の試合に支障をきたす。チームは全員で行くと主張して譲らず、飛行機は3度目の試みでようやく離水に成功した。その日の午後、ペロタスでの試合は、0−0の引き分けだった。
ポルトアレグレ−ペロタス間は直線距離で250キロ。東京−名古屋間ほどだ。アトランチコ号はぴったり2時間半で飛び、チームを試合に間に合わせた。飛行機がなければ往復で数日間も要したのだ。航空機での移動がいかにサッカーの発展に寄与したかわかるだろう。
第二次世界大戦で航空技術が大発展し、戦後は飛行機での遠征は日常茶飯事となった。そして本格的な国際化時代がきた。
便利になった反面、悲劇も起きた。1948年のトリノ、58年のマンチェスター・ユナイテッド、八七年のアリアンサ・リマ、そして九三年のザンビア。一瞬にして、ひとつの才能あふれるチームが消えていった。
今日、トップクラスのチームにとって、アウェーで試合をすることは、飛行機に乗ると同義語にさえなっている。それはもはや命がけの冒険ではない。
ことしも世界中で何千という国際試合が行われる。そして延べにすれば何万というサッカーチームが空を飛ぶことになる。
サッカーがいかに典型的な「20世紀の産物」であったか、この一事だけでも明白なように思える。
(2000年1月12日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。