サッカーの話をしよう
No.302 ロクさんとの約束
悲報を受け取ったのは2月5日午後、香港のホテルでカールスバーグカップの1回戦に出かけようとしていたときだった。
「ロクさんが亡くなりました」
東京の友人がメールで伝えてきた。パソコンの画面を眺めながら、私は言葉を失った。そして、痛恨の思いを抑えることができなかった。
高橋英辰さん、1916年辰年の生まれ、享年83歳。サッカー界のだれもが、「ロクさん」と呼んでいた。本当のお名前は「ひでとき」と読む。
ロクさんのお父さんは旧制刈谷中学(愛知県)の英語教師で、校長先生だった。そしてロクさんが子どものころから「頭に毛があった記憶がない」というほどの見事な禿頭だった。生徒たちは「SUN(太陽)」と呼んだ。そこにロクさんが入学した。
「SUNのSON(息子)だからロクだ」
以来、ロクさんとなった。
刈谷中学から早稲田に進み、卒業して日立製作所に入社する。母校早稲田の監督を経て、やがて日本代表の監督となる。57年と60年から62年の2期。東京オリンピックを前に暗中模索していた日本代表の基礎をつくったが、62年に若い長沼健に監督の座を譲り、一時は社業に専念した。しかし70年、名門日立が日本リーグで下位に低迷するなか監督として復帰、2年後にはリーグ優勝に導く。
「ブラジル流個人技」がもてはやされた当時、ロクさんは「走る日立」を掲げ、動いて動いて動き回るというサッカーの原点を示して、日本のサッカー界に大きな警鐘を与えた。
79年から6年間は日本リーグの総務主事を務める。人気の底辺だったころ、ロクさんはリーグ事務局を協会から独立させるなど、画期的な施策を次つぎと断行した。「ロクの改革」がなければ、Jリーグへの移行は数年は遅れただろう。
70歳を過ぎてもサッカーへの情熱は衰えず、80年代後半からはNTT関東(現在の大宮アルディージャ)の特別コーチを務めた。確固たる「サッカー哲学」をもちながら、常に世界の状況に目を配り、研究を怠らなかった。世界中に足を運び、トップクラスのサッカーから、常に「新しいもの、変わらぬもの」を考え続けた。
数年前、私はロクさんとひとつの約束をした。ロクさんの経験を1冊の本にまとめようという話だった。ロクさんは喜ばれ、「ロクの細道」という書名まで考えられた。ロクさんは本来、私など足元にも及ばない文章の達人で、味のある書き手だった。しかしいろいろな都合で、私が話を聞き、まとめて、チェックしてもらうという形にした。
数十時間にわたってお話を聞き、原稿起こしが始まったが、途中で中断し、未完のまま私の手元に十数本のテープが残った。温厚なロクさんは、なかなか原稿が進まなくても、私の怠慢を責めたりしなかった。しかし天国に召される瞬間には、「あれは、どうなったのかな」という思いが胸をよぎったに違いない。それを考えると、痛恨の思いを拭い去ることができない。
小さな体、穏やかな笑顔の奥に猛烈な闘志を秘め、日本サッカーの発展を支えて、なお「自己」を主張されることなく後進に道を譲られたロクさん。
葬儀は9日水曜日、香港からの帰国の朝だった。せめてもの罪滅ぼしに、私は弔電を送った。
「サッカーひとすじに歩かれたロクさんの偉大な足跡と、温かなお人柄を思い、心の底から悲しい気持ちがわいてくるのを抑えることができません。願わくは、天国にもきれいな芝生のグラウンドと1個のボールと、そして十数人のやる気のある選手がいますように」
そう、そして私は、ロクさんとの「約束」を果たさなければならない。
(2000年2月16日)
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