サッカーの話をしよう
No.307 誇りがもてる日本代表へ 待望の試合内容
私たちはどんな「日本代表」をもちたいと願っているのだろうか。先週、神戸で行われた中国との国際親善試合を見た夜、私はそのことを考え続けた。
0−0の引き分け。ホームで、昨年9月のイラン戦に続く引き分けだ。多くのファンから不満の声がもれるのは、ある面で当然のことだ。しかしこの試合のプレーの内容が、98年秋にフィリップ・トルシエ監督が就任して以来、A代表が見せた最高のものだったことも、また多くの人が認めたことだった。
イタリアで活躍する中田英寿と名波浩、そしてスペインの城彰二の3人を呼び戻し、小野伸二、稲本潤一ら若いメンバーと合わせて、初めて現在考えうる最高の布陣を敷いた日本は、見事なパスワークで中国を圧倒した。攻撃面でイニシアチブを取ったことで相手が自陣に深く引く形となり、日本は守備もほとんど危なげがなかった。
しかしそれでも、心から喜べないものが残る。日本代表はいつでも強くあってほしい。どんな相手に対しても、ゴールを決め、勝ってほしい。
だが--ここで私は考える --私たちが本当に望んでいるのは、とにかく勝利なのだろうか。どんな内容の試合でも、勝てば満足できるのか。
頭に浮かんだのは、96年アトランタ・オリンピックのブラジル戦だった。「マイアミの奇跡」。日本が1−0で優勝候補筆頭のブラジルを破った。
このときのブラジル代表は、単なるオリンピック代表ではなかった。ロナウド、リバウド、ベベトらを並べ、つい1週間前には世界選抜チームを2−1で下したばかりだった。「このままワールドカップに出しても優勝候補」とまでいわれたブラジル・サッカー史上最強のオリンピック・チームだった。そのブラジルを日本が破ったのだ。
しかしマイアミのスタジアムで試合終了のホイッスルを聞いたとき、私の胸には複雑な思いが交錯した。日本は徹底的に守備を固めただけで、「サッカー」をしなかったからだ。決勝ゴールは、「万にひとつ」の幸運から生まれたものだった。
なりふりかまわぬ試合でも、幸運に恵まれたといっても、ブラジルに勝ったのはすばらしいことだ。しかしこの勝利で「日本のサッカー」が大きく前進したとは感じられなかった。「私は日本人だ」と、胸を張る試合とは思えなかった。
ひとつの国の代表チームとは、その国のサッカーの状況を11人の選手に反映させたものということができる。
どれだけ普及が進んでいるか。少年たちに適切な指導が行われているか。ハイレベルなリーグ組織があるか。そこからどんな選手を生み出しているか。協会とチームの信頼関係が存在するか。チームに対してどんな協力体制がとられているか。こうしたものすべてのものの「結晶」が、代表チームなのだ。
もちろん、勝ってほしい。ゴールを決めて、相手を叩きつぶしてほしい。しかし私が日本代表に望むのは、何よりも、技術と才能をプレーの質の高さのなかで発揮することだ。日本がいかにすばらしい「サッカー選手」を生み出しているかを示すことのできる試合なのだ。
ゴールこそなかったが、先週の中国戦はまさにそうした試合だった。圧倒的な身体能力を誇る相手を、技術と才能と高度なチームプレーで圧倒した試合だった。そしてそのうえに、高いスピリットもあった。
それこそ、私が「日本代表」に求めているものだった。あのジョホールバルでのイラン戦以来、ずっと待ち望んでいたものだった。私たちが誇るに足る日本代表だった。
サッカーは、ときとして内容に正直でない結果をもたらす競技なのだ。
(2000年3月22日)
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