サッカーの話をしよう
No.310 ネパールの英国人監督
ヨーロッパではチャンピオンズ・リーグの準決勝に全大陸が沸き、南米ではワールドカップ予選が火ぶたを切った。しかし世界のサッカーはそうした「ビッグゲーム」だけで動いているわけではない。FIFAランキング159位。ヒマラヤの国ネパールからは、代表監督が勲章を受けた話が伝わってきた。
昨年の南アジア競技大会で銀メダルを獲得したネパール代表の英国人監督ステフェン・コンスタンチンに、去る3月24日、ビレンドラ国王が王宮で自ら勲章を与えたという。
「私などよりずっとネパール・サッカーの発展に尽くしてきた人がいる」。36歳の英国人監督は謙虚な男だった。
長い間、ネパールはアジアでも最も弱い国のひとつだった。代表チームは、過去5年間で2回しか勝ったことがなかった。日本とも何度も対戦したが、いずれも日本が大勝している。
しかしドイツ人のスピットラー監督の後を継いで昨年8月にコンスタンチン監督が就任すると、これまでのネパール協会の若手育成の努力が一気に実を結んだ。南アジア競技会でブータンを7−0で破り、次いでパキスタンにも3−1で快勝。インドには0−4で完敗したが、準決勝でモルジブを2−1で下し、見事決勝に進出した。
決勝戦、0−1とリードされたネパールが最後の攻撃を仕掛け、終了3分前にFWのハリが放ったシュートがゴールポストを叩いて真下に落ちた。ゴールにはいったと見たハリは観客席に向かって歓喜を表現した。ゴールは認められなかった。だが銀メダルは望外の成功だった。
準決勝、決勝は、首都カトマンズのナショナルスタジアムに超満員の2万人を集めた。スタジアムだけではなかった。約2000万の国民がナショナルチームに熱狂し、サッカーでひとつにまとまったのだ。
コンスタンチンは、祖国イングランドではまったく無名の存在だ。ロンドンで生まれ、ミルウォールとチェルシーのユースに在籍したが、プロのクラブとの契約にはいたらず、イングランドではセミプロの名門エンフィールドでプレーしたのが最高の経歴だった。彼はアメリカに新天地を求め、地方のクラブでサッカーをしながら生計をたてた。だが27歳のときにひざの故障で現役生活を断念、コーチで生きようと決心する。
しかし若い無名コーチが簡単に職を見つけられるものではない。ようやく彼が手に入れたのは、地中海の島国キプロスの下部リーグのコーチ職だった。
APEPというクラブの実質上の監督として2部で2位になったのが96年。だが正監督就任は拒否された。「その若さでは、主審に圧力をかけることはできない」という理由だった。
昨年8月、彼はネパールにやってきてナショナルチーム監督に就任した。高い技術をもち、素質も悪くないネパールの選手たちに、コンスタンチンは自信をもつように吹き込み、90分間戦い抜くチームに仕立て上げた。これが、南アジア競技会銀メダルにつながった。
しかしコンスタンチンが国民を熱狂させたのは、勝ったからだけではなかった。準決勝のときのひとつのパフォーマンス。彼は、ネパールの民族衣装で試合に臨んだのだ。
「あれは、どんな結果になろうと、私は選手たちの味方だということをアピールするためだったんだ」と、コンスタンチンは語る。それは選手たちの闘志を引き出し、さらにネパール国民に祖国や民族に対する誇りを思い起こさせることになった。
「サッカーを通じて幸せ」になった国ネパール。世界的な名声とはほど遠いところにいるひとりの英国人コーチの、心を込めた仕事が、サッカーを小さな「奇跡」の道具にしたのだった。
(2000年4月12日)
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