サッカーの話をしよう
No.327 FC PAF 20年間の友情物語
今週は「私事」の話をしたい。
私が監督をしている女子サッカークラブが、ことし創立二十周年を迎えた。
FC・PAFは、東京の実践女子大学サッカー同好会の卒業生によって1980年につくられた。実践女子大ではその5年前、75年に同好会が発足し、「チキン・フットボールリーグ」と名づけられた京浜の女子リーグで数年のうちに2回にわたって優勝していた。関東の女子サッカー草創期の強豪だった。
部員の大半は、大学入学後に始めたサッカーだった。しかしきれいな芝のグラウンドでボールをける喜びを見出した彼女たちは、たちまちサッカーのとりことなった。そして卒業してもサッカーを続けたいとつくられたのが、FC・PAFだった。
できたばかりのクラブとはいえ、学生時代からのチームワークは抜群だった。2シーズン目の82年3月には、第3回全日本女子選手権大会準優勝という成績を残している。
しかし社会人の女性だけのクラブは、ほどなく慢性の選手不足に陥った。監督もいない時期が長く、中心選手は試合前にウォーミングアップもろくにできない状態だった。
「試合のときにメンバー表を書くだけでいいなら」と、なかば「押しかけ」で私が監督になったのは、そんな時期だった。
しかしチームのなかにはいって驚いた。選手たちは、ひとりの例外もなく、やろうと決めたことをどんなことがあってもやり抜こうとする意志の強さをもっていた。技術的には未熟でも、彼女たちのサッカーに対する情熱は、私が知っていたサッカー仲間の誰よりも熱かった。
若い女性が週に2日も3日も練習し、週末はほとんど試合につぶれるのだ。よほどの決意と、サッカーに対する情熱がなければ続くものではない。
よく、「大住さんのもっている女子チームは...」などと言われるが、とんでもない。FC・PAFは、いまも昔も、100パーセント、選手たちの力で運営されているクラブである。私は、彼女たちの情熱に引っぱられて、ついてきただけなのだ。
やがてクラブには実践女子大の卒業生以外からの選手も加わり、その情熱に見合うように年々成長していった。
社会人のサッカークラブが東京でコンスタントに活動を続けるのは至難の業といっていい。とにかくグラウンドが不足している。メンバーは、この20年間、練習や試合と同じように「グラウンド探し」に奔走した。
情報を集め、借りられそうなグラウンドの担当を決めて、抽選などに参加する。現在は、ケガなどで「休部中」のメンバーのなかに献身的に働いてくれる人が何人もいることで、クラブが成り立っている。
ひとりのメンバーは、家庭と仕事の都合でもう8年も練習や試合にくることができない。しかしそれでも、毎月1回、時間をつくって都内のあるグラウンドの抽選会に出かける。非常に倍率が高く、数カ月にいちど程度しか当たらない。しかし自分がプレーするわけでもないグラウンドを、彼女は何年間もとり続けているのだ。これ以上の無私の行為があるだろうか。
このクラブを見ていると、サッカーというスポーツのチームゲームとしての良さが本当によくわかる。ひとりでは何もできない。心を合わせ、力を合わせなければ、試合に勝つことはおろか、試合をすることもできない。そこに友情が生まれる。
選手たちを貫く友情こそ、このチームを20年間にわたって引っぱってきた原動力だった。
今週末、クラブは20周年の記念行事を開く。現役選手からOG、その夫、そして子どもたちまで、70人以上が集まる。20年分の友情が集まれば、楽しい会にならないはずがない。
(2000年8月16日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。