サッカーの話をしよう
No.336 グロリアとの再会
「ウレシイ!」
数時間の滞在中、彼女はその言葉をなんど叫んだだろうか。
アジアカップの取材で訪れたレバノンで、思いがけない、本当に思いがけない人に再会した。グロリア・ベレンデス=ラミレスさん。86年のメキシコ・ワールドカップのときにメインプレスセンターで日本人取材陣が非常にお世話になった人だ。流ちょうな日本語で私たちの無理難題を聞き、ときに強引な交渉でそれを押し通してくれた。
メキシコ生まれで、サウジアラビア人の夫をもつ彼女は、イタリアのミラノに住み、天才的な語学能力を生かして世界を舞台に通訳として活躍していた。母国語のスペイン語はもちろん、1歳半から始めたという英語、中学生のときに始めたフランス語、そしてドイツ語、イタリア語、日本語と、プロとしてできるものだけで6カ国語。そのほかに、アラビア語はもちろん、韓国語と中国語も操る。
そのグロリアが突然レバノンのベイルートに現れるまでには、少し説明が必要となる。
数年前から、グロリアは故郷に近いメキシコのサンミゲルという小さな町で暮らしていた。ふたりの子供を育てるためだった。しかし長男のヨシフくん(7歳)が学校に上がる年齢となり、夫の母国語であるアラビア語を学ばせなければならない時期となった。アラビア語圏で生活に適した町を探してたどり着いたのが、ベイルート郊外の丘の上にあるブルマナという町だった。そして、9月なかば、学校の新学期に合わせて引っ越してきたばかりだったのだ。
その日、10月13日の夜にグロリアはベイルートに用があり、車で街中を通りかかった。そのとき、目の前で大型バスが止まり、ドアが開いた。
彼女は意味のない大声を出した。バスから、見覚えのある顔が降りてきたからだ。トリポリでの試合の取材からベイルートに戻ってきた私たちが乗った、プレスバスだったのだ。
「水があふれ出るように、次から次へと、知った顔が流れ出てきた」
彼女の言葉を借りると、そんなふうだったという。最初に降りたのが、86年ワールドカップを取材したベテランのカメラマンだったのが幸いだった。こうして私たちは、深夜のベイルートの街角で、まったく偶然に久々の再開をした。その晩、彼女は興奮して寝付けなかった。
大会終盤の一夜、私たちは彼女の自宅に招待された。「何人でもいいよ」という言葉に甘えて、メキシコ大会に行かなかった者(父親がメキシコに行ったカメラマンもいた)も含め、総勢17人が、改装したてのグロリアの家に押しかけた。サウジアラビアのジェッダで会社を営む夫のイブラヒムさんは不在だったが、ヨシフくんと長女のサラちゃん(5歳)が迎えてくれた。
標高600メートルというブルマナは、まるでスイスの田舎町のように清潔だった。地中海に沈む夕日は、これまでの人生で見たことのない美しさだった。日が落ちると、眼下にはベイルートの夜景が宝石箱のように散らばった。私たちは、近くのレストランで最高のレバノン料理をごちそうになった。
70年代のはじめに日本に留学して日本語を勉強し、それ以来、日本が大好きになったというグロリア。長男が生まれてから休んでいた仕事を、来年には再開する予定だという。
ビッグニュースではないか!再来年、2002年には、「グロリアにきてもらったら百人力」という仕事が、日本には山ほどある(彼女の奪い合いになる心配のほうが強い)からだ。
十数年来の旧友、しかも彼女が「ダイスキ!」という日本人に囲まれて、休みなく話し、食べ、「ウレシイ!」を連発するグロリアは、まるで10代の少女のようだった。
(2000年11月1日)
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