サッカーの話をしよう
No.338 審判問題をオープンな議論に
「ビデオを詳細に検討したが、あのPK判定は正しかった。しかしその一方で、レッドカードは不要だったというのが審判委員会の見解である。イエローカードで十分だった」
アジア・サッカー連盟(AFC)のファルク・ブゾー審判委員長(シリア)の口から爆弾発言が飛び出したのは、アジアカップ(レバノン)の決勝戦前日に行われた記者会見だった。
問題のケースは大会序盤、韓国対中国戦のことだった。中国のFW宿茂臻のドリブルに韓国DF洪明甫が激しくチェック、宿茂臻が倒れた。主審のアルメハンナ氏(サウジアラビア)は迷わず笛を吹き、ペナルティースポットを指すと同時に、洪明甫にレッドカードを出した。
AFCの記者会見には、ジャーナリストだけでなく、大会の最終段階まで残った審判員たちも出席していた。アルメハンナ氏もその席にいた。ブゾー委員長の言葉に、私は思わず彼を見たが、表情は変わらなかった。
いろいろなレベルの大会を見てきたが、「審判委員会」のような当事者組織がひとつの判定をこれほど明確に「誤審」と明言したのは初めて聞いた。
ルールでは、試合が終わったら主審が試合中に下した判定を覆すことはできない。そして国際サッカー連盟(FIFA)は、試合中の判定に関して担当審判がメディアにコメントしてはならないと通達している。余計な混乱を避けるためだ。そして各組織の審判を統括する審判委員会も、誤審があっても明確には認めないのが通例である。
それは、よく言われるように「仲間をかばう」ためではない。審判委員会が「誤審」と認めれば、その審判はある種の「レッテル」を貼られてしまうからだ。
日本サッカー協会とJリーグで審判委員長を務める元国際審判員の高田静夫氏はこう語る。
「選手も審判も人間であり、ヒューマンエラーがあるのは当然です。しかし選手はたとえミスをしても、次の試合、あるいは同じ試合のなかでリカバーすることができる。それに対して審判は、なかなかそれを取り戻す機会がなく、ひいては、『あのときの審判か』などと、選手との信頼関係に影響を与えるのではと心配されます」
ブゾー委員長は、長くアジアの審判技術の向上に貢献してきた人である。いわばアジアの審判たちの父のような存在であり、FIFAでも審判委員会メンバーとして信頼が厚い。その人がメディアに、しかも本人がいる前で「誤審」と明言したのは、明確な哲学のうえに立ってのものだったのだろう。
審判も人間である以上、見落としや判断ミスは不可避であり、サッカーという競技が、選手や審判のミスも包含するものであるという認識を広めなければならない。そして、たとえ誤審が結果に影響を及ぼしても、審判の人格を傷つけたり、ましてや危害を加えるようなことはけっしてあってはならない。
サッカーをもつ社会にそのような「常識」が確立していけば、自然とブゾー委員長のような態度が出てくるはずだ。それによって、より成熟した「サッカー社会」になるのではないか。
私は、選手のプレーや監督の采配と同じように、審判の判定についても、大いに議論があるべきだと思う。審判は別に「神聖不可侵」の存在ではない。
しかしそうしたオープンな議論は、審判委員会がどう認定するか以前に、メディアが自主的にしなければならない。テレビ、新聞などで報道に当たる者がルールと審判技術についてのしっかりとした知識をもち、ピッチの上で起こったこと、そしてその判定の意味を的確に報道し、そのうえで判定を「まな板」の上に乗せなければならない。
ブゾー委員長の言葉を考えながら、私もメディアの一員として身の引き締まる思いがした。
(2000年11月15日)
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