サッカーの話をしよう
No.346 パウロ・ディカニオ「決勝点を捨てた哲学」
今回は、パウロ・ディカニオというひとりのイタリア人選手の行動について話をしたい。
名門ユベントス、ミランなどでプレーし、小柄ながらシャープなシュート力で活躍してきたFWである。96年にイタリアを飛び出してスコットランドのセルティックに移籍し、翌年にイングランドのシェフィールド・ウェンズデー、そして99年からは同じイングランドのウェストハムでプレーしている。32歳。華やかな活躍をしながら、イタリア代表の経歴はない。
話は昨年12月中旬のことである。ウェストハムがアウェーでエバートンと対戦した。試合は1−1のまま終盤に突入し、ロスタイムにはいった。
そのとき、エバートンのDFラインの裏に長いボールが出た。ウェストハムのFWカヌートが走り込む。エバートンのGKジェラードが果敢に飛び出す。ペナルティーエリア外でかろうじてクリア。しかし彼はカヌートとの接触で足を痛め、そのままグラウンドに倒れた。
こぼれ球を拾ったのは、ウェストハムのFWシンクレア。すかさずペナルティーエリア内にボールを入れた。ボールは、エリア内に残っていたディカニオのところに正確に飛んだ。近くにエバートンの選手もいたが、ディカニオの技術をもってすれば、たやすくゴールを決められる状況だ。ボールを止め、ゴールにけり込んで決勝ゴール。誰もがそう思った。ところが、予想外のことが起こった。
ディカニオはシュートしなかったのだ。驚いたことに、手でこのボールをキャッチし、倒れたままで苦痛の表情を浮かべているGKジェラードを指さして、「ドクター!」と叫んだのだ。
試合はこのまま終わった。ディカニオの行動は、ウェストハムにとっては、勝ち点2を失う(勝てば勝ち点3のところ、引き分けだったので1)ことを意味していた。
「別に特別のことをしたわけではないよ」と、試合後、ディカニオは語った。しかしウェストハムのレドナップ監督は複雑な表情だったという。
「私は、当然、彼が得点するだろうと思った。すばらしいスポーツマンシップだと思う。しかし、誰かが同じことを私たちにしてくれると思うかい?」
ウェストハムのホームページには、ディカニオの行動について数多くの投書が寄せられた。称賛する意見が多かったが、なかには、「あのままゴールを決めても、誰も非難しなかっただろう。得点してからドクターを呼んでも、そう遅くはなかったはずだ」という意見もあった。「計算ずくのハンドなのだから、イエローカードものでは?」という皮肉屋もいた。
とはいえ、ファンのアンケートを集計すると、約8割が彼の行動を支持したという。
日本では、97年のゼロックススーパーカップで、ボールをつかんだまま負傷して、あまりの苦痛にボールを外に出すこともできなかったヴェルディ川崎のGK菊池を、鹿島アントラーズのFWマジーニョが機転をきかせて助けたことがあった。彼は、菊池に走り寄って、手でボールをつかみ、そこでプレーの流れを断ち切ったのだ。
しかしこのマジーニョの「機転」と比べても、ディカニオの行動は、誰にでもできるものではないように思える。目の前にころがってきた決勝点のチャンス。それを捨て去る行動の裏には、よほどの「哲学」があったはずだ。
日本のサッカーファンは、彼の行動をどう考えるだろうか。
試合後、ディカニオはこんなことを話している。
「試合中は、相手選手はもちろん敵さ。でも、ケガをしたら、それはもう敵じゃない。仲間なんだ。助けなければならないのは当然さ」
(2001年1月15日)
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