サッカーの話をしよう
No.349 リスペクトする心
きょうは、ひとつの言葉について考えたい。
「リスペクト」(respect)
「後ろを振り返って見る」という意味のラテン語から発して、ヨーロッパの各国語で、尊敬する、敬意を払うというような意味の言葉になった。「リスペクト」と発音するのは英語だ。
「私たちはすべてのチームをリスペクトしている」
昨年レバノンで行われたアジアカップ、対戦相手について聞かれると、日本代表のフィリップ・トルシエ監督は決まってこう切り出した。
通訳は、たいていの場合、「リスペクト」を「尊敬している」「尊重している」「敬意を払っている」などと訳す。
しかしどう訳しても、なかなかぴったりこない。
「サッカーでは何でも起こりうる。試合というのは、キックオフされるまでは常にフィフティ・フィフティと考えなければならない」
トルシエはそんな話もする。だから相手を「リスペクト」することが必要なのだ。彼は真剣にそう話す。けっして外交辞令ではないのだ。
サッカーは単純に戦力を比較して勝敗を決めつけることのできるスポーツではない。たとえ対戦相手のこれまでの成績が自チームと比較して悪く、誰の目にも力の差があるように見えたとしても、ひとつの定規で戦力を測って「100パーセント勝てる」と言い切ることなどできない。
だから試合に臨むときには、相手の価値をしっかりと認め、真剣に取り組まなければならない。そうした態度を、「リスペクトしている」というのだろう。
リスペクトしなかったために痛い目にあったチームは数限りなくある。最もわかりやすい例が、96年のアトランタ・オリンピック初戦で日本と対戦したブラジルだろう。
このときのブラジル・オリンピック代表は、オーバーエージの選手を3人入れ、「このままワールドカップに出ても優勝できる」とまで言われた。大会直前には世界選抜を3−1で下し、オリンピックの金メダルは間違いないと考えられていた。
誰も、日本などをリスペクトしていなかった。その結果、0−1で敗れるという、手ひどいしっぺ返しを受けた。
「格下」(私はこの言葉が嫌いだ)のチームをリスペクトせず、見下す態度は、「格上」のチームに対する必要以上の恐れと表裏一体をなしている。
もう三十数年も前、日本代表がブラジルの強豪クラブと対戦した。試合を前に、日本選手の何人かが、相手の名声に押されて萎縮しきっていた。それを見たデットマール・クラマー・コーチはこんな話をしたという。
「相手と日本の実力を比べたら、富士山と琵琶湖ほどの差があるが、精神力と作戦によってその間に空中ケーブルを架けることもできる。富士山を征服することもできるのだ」
その言葉に励まされた日本は、自分たちのもっているものを出し切って2−1の勝利を収めた。相手の力を正確に認めたうえで、それを恐れずに戦うこともまた、「リスペクトのある」態度ということができる。
相手の価値を認めること、「リスペクト」を、サッカー、そしてスポーツ全般の精神的な柱のひとつにするべきだと思う。そうすれば、そこから、試合中や試合後のいろいろな態度が生まれてくるのではないか。
どんな試合でも真剣に取り組むようになるだろう。負傷した選手には、どちらのチームであろうと気づかうだろう。そして試合が終了したら、勝っても負けても、狂喜したり倒れ込むのではなく、自然に互いの健闘を称えあうことができるだろう。
相手をリスペクトすることは、自分自身をリスペクトすることにもつながるのだ。
(2001年2月7日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。