サッカーの話をしよう
No.355 ワールドカップを本当に支える人々
父は大正8年生まれ、82歳だった。
60歳のときにサラリーマン生活を定年で終え、以後神社の神主となって20年以上を務めた。
昭和の最も暗い時期に青春時代を送った父は、専門的にスポーツに取り組んだことはなかったが、戦後はプロ野球を熱愛した。私が少年時代に野球に熱中したのも、そして巨人ファンになったのも父の影響だった。日曜日には、父とキャッチボールをするのが楽しみでならなかった。
小学校3年生の誕生日に、父は当時の小学生が誰ももっていなかった高級グラブを買ってくれた。このグラブを使って夏休みのあいだ近所の中学生から特訓を受けた私は、守備だけは絶対の自信をもてるようになった。
しかし中学生になった私は、父の期待をあっさりと裏切った。父のまったく知らないスポーツ、サッカーを始めてしまったのだ。私はたちまちサッカーの虜となり、弁護士を目指して入学した大学生活の半ばには、サッカーで生きていこうと決心するほどの「サッカー狂」となっていた。
サッカーの雑誌を発行している出版社への就職を決めようとしたとき、母は泣いて反対した。しかし最後まで私の話を聞いていた父は、「好きなことなのだから、思い切ってやれ」と静かに言ってくれた。母と言い争うことなど見たことがなかった温和な父が、母の気持ちを知りながら私を応援してくれたことが、私の仕事の支えとなった。
その後、父は何かとサッカーの話題を探しては新聞の切り抜きを送ってくれた。私が海外出張に行っている間には、テレビ放映のビデオを録画し帰国後に送ってくれた。
一昨年、父が入院したという知らせを受けたのは、パラグアイで取材をしている最中だった。取材予定を途中で切り上げて帰国すると、自分のことより私の仕事のことを心配してくれた。
以来何度か入退院を繰り返し、ことし1月下旬からの入院が最後になった。苦痛に満ちた死の床でも、父は私の「応援団」の姿勢を崩さなかった。ワールドカップのチケット申し込み用紙を姉に取りに行かせ、「オレはどうせ行けないだろうけど」と言いながら、一生懸命に記入していた。
私が顔を見せるたびに、父は「2002年はだいじょうぶか」と聞いた。「おまえの仕事はだいじょうぶか」「大会はうまくいくのか」。
大会のオフィシャルショップでバッジを1個買い求め、見舞い代わりにもっていくと、子どものように喜んだ。
「日本のワールドカップを本当に支えてくれているのは、父のような人たちではないか」
父の顔を見ながら、私はそんなことを考えた。私だけではない。日本サッカー協会の役員やスタッフ、そして日本組織委員会(JAWOC)の人びとの多くに、こうした父、あるいは母がいるのではないか。
自分自身はサッカーやワールドカップにそれほどの関心がなくても、自分の息子や娘がそれに関係する仕事をしているというだけで、心から成功を願い、できるなら力になりたいと思っている無数の父親や母親。
「1年前」を迎え、いくつもの課題を残しているワールドカップ。しかし最後まで応援してくれた父のためにも、成功させるための努力を惜しみたくないと思うのだ。
(2001年3月21日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。