サッカーの話をしよう
No.357 モルジブ・サッカー史の偉大な1ページ
モルジブが勝った。
2002年ワールドカップのアジア第1次予選第9組がスタート。中国を大本命に、インドネシア、モルジブ、そしてカンボジアが、最終予選のひとつの座を争う。
その初戦、4月1日に首都マーレで行われたカンボジア戦で、モルジブは6−0の勝利をつかんだのだ。前半33分にアリ・ウマルのシュートで先制したモルジブは、後半は歓声に押されてすっかりリラックスし、次つぎとゴールを破った。
モルジブがワールドカップ予選に参加したのは98年フランス大会に続いて2回目。今回のカンボジア戦が7試合目で、初勝利だっただけでなく、ウマルの先制点は、記念すべきモルジブの「ワールドカップ予選初ゴール」だった。
イランなどと組んだ前大会の予選では、6戦全敗、得点0、失点59。シリアの首都ダマスカスで行われたイラン戦が、モルジブの予選デビューだったが、なんと0−17という歴史的な大敗を喫してしまったのだ。
一試合17ゴールは公式国際試合での世界新記録(その記録は、昨年11月に、同じイランがグアムを19−0で下して更新した)。まったく相手にならなかった。
インドの南、インド洋上に赤道をはさんで点々と連なる1000以上の島々からなるモルジブは、総面積約300平方キロ。淡路島の約半分の広さという小さな国だ。人口は約25万人。そのうちの5000人がサッカー選手として登録されている。
英国からの独立が1965年。アジアサッカー連盟(AFC)発行の年鑑によると、1970年代にスリランカ人がサッカーを伝えたというが、100年近い英国支配でサッカーが行われなかったとは思えない。ただそれは、駐在の英国人たちだけのものだったのだろう。
83年にサッカー協会が誕生し、AFCに加盟。国際サッカー連盟(FIFA)への加盟は86年のことだった。しかし首都マーレでも人口は6万人。大都市がないため国内リーグが発達せず、サッカーの発展も遅れた。
さらに大きな発展阻害要素があった。コーチの不足だ。ほんの数年前まで、モルジブには資格をもったコーチがふたりしかいなかったのだ。
日本サッカー協会が藤田一郎コーチを主任インストラクターとして送り込んだ指導者養成コースが有資格コーチの数を飛躍的に増やし、若い選手のレベルが急速に上がった。そして、AFCの援助で外国人コーチを雇うことができるようになったことも効いた。
アジアの1次予選では、多くの組が1カ国か2カ国での集中開催となっているが、モルジブの属する第九組は完全な「ホームアンドアウェー」形式で行われている。
そのおかげで、国民の20分の1に当たる1万2000人が、国立スタジアムでこの幸福な勝利を楽しむことができた。
今週末から、厳しいアウェー3連戦がスタートする。国民も、モルジブが中国を押しのけて最終予選に到達するとは考えていないだろう。
しかしたとえ中国に手ひどくやっつけられたとしても、モルジブの人びとの幸福感を奪うことはできないだろう。彼らの「ワールドカップ」は、まさに2001年の4月1日にあった。この日付けは、モルジブのサッカー史に永遠に語り継がれることになるだろう。
(2001年4月4日)
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