サッカーの話をしよう
No.375 レバノンの友から教わったこと
昨年10月、日本代表が2回目の優勝を飾ったアジアカップ・レバノン大会はもう遠い思い出となった。ワールドカップに向け、もう誰も過去を振り返ったりしない。
しかし私は、ときどきレバノンの日々を思い出す。日本代表のサッカーだけではない。ひとりの中年ドライバーの、人のよさそうな笑顔が、頭に浮かんでならないのだ。
「モシモシー!」
出会いは、彼のけたたましい絶叫だった。
イブラヒムは、日本の取材陣が宿泊していたベイルートのホテルに出入りするタクシー・ドライバーのひとりだった。到着の翌朝、日本の練習会場へ行こうとホテルを出たとたんに、彼につかまった。
数日前からきている日本人記者を乗せたとき、みんな決まって携帯電話を取り出し、「モシモシー!」と始めたらしい。あまりに面白くて、以来、日本人の顔を見ると「モシモシー!」と大声をかけるようになったのだ。
練習会場は遠く、公共交通機関はなかった。取材陣はすぐに「専用ドライバー」をもつようになった。私も、2人の同僚とともにイブラヒムの世話になることにした。
大きな問題があった。彼はまったく英語ができなかったのだ。毎回、イブラヒムは、出かける前に英語のできる仲間を呼んで通訳してもらい、行き先や時間を念入りに確認してから出発した。
日本は期待通りに勝ち進み、滞在は3週間近くになった。私たちは、イブラヒムの車で日本の試合が行われたサイダに通い、そして練習場に通った。バールベックというローマ時代の遺跡へ連れて行ってもらったこともあった。その間ずっと、彼はアラビア語で、私たちは日本語で通した。
明日が決勝戦という日、練習が終わってホテルに戻ろうとすると、イブラヒムが「今夜の食事は、俺の家にこい」と言い出した。仕事をかかえていたので、「食事は無理だけど、お茶だけごちそうになろう」と、私たちは返事した。
郊外の彼の家は、とてもきれいだった。4人の子どもたちは礼儀正しく、そして堂々としていた。驚いたのは、奥さんをはじめ、イブラヒムを除く家族全員が流ちょうな英語を話したことだった。
「父は、内戦の時期に育ったので、まったく学校に通えなかったのです」と、17歳の長女が説明してくれた。
「だから、私たちにしっかりとした教育を受けさせようと、がんばって働いてくれているのです」
4人の子どもたちは、すべて私立の学校に通っていた。長女は弁護士になりたいと、エレガントな英語で話した。
「お茶だけ」といったのに、次つぎと果物が出され、話が途切れることはなかった。楽しい1時間だった。
日本が優勝して、帰国する日になった。私は、空港までの送りを彼に頼んだ。ホテルから空港まではわずか10分間ほどの行程だ。いつものように、私は助手席に座った。
しばらく走ると、イブラヒムの様子がおかしいのに気づいた。見ると、ハンドルから右手を離して、しきりに両目をぬぐっているのだ。
「きょうまで毎日、俺の車に乗ってくれた人たちが明日からいなくなる。寂しい」
こう言いながら、彼は泣いていたのだ。
「イブラヒム、きっとまたいつか会えるよ。もしここにくる機会があったら、必ず空港にきてもらうからな」
彼の背中を叩きながら、そういうのがやっとだった。
ワールドカップ開催にはたくさんの人の力が必要だ。しかし「外国語ができないから」と引っ込み思案になっている人が多いという。そういう話を聞くたびに、私はイブラヒムの笑顔を思い出すのだ。
イブラヒムさん
(2001年8月8日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。