サッカーの話をしよう
No.399 少年時代の幸福な記憶
世界の頂点を競うワールドカップ。それは、プロフェッショナルたちがしのぎを削る戦場だ。「戦士たち」は、ほんのわずかなミスも見逃さず、相手の弱点をついて勝ち上がっていく----。
そんなワールドカップに出場するある選手の自伝を読んでいて、私はまったく別の思いにとらわれた。思い出したのは、高校時代の遊び時間のサッカーだった。
私の学校には、休み時間の遊び場としてアスファルト舗装の中庭があった。そして私たちの「遊び」は、1年中、サッカーのゲームだった。
サッカーのためにつくられた中庭ではない。私たちのゴールは、両隅にあるトイレの壁だった。そこだけ違う色に塗られていたからだ。ふたつのゴールは、正対さえしていなかった。90度の角度で向き合っていたのだ。
それでよかった。大きな展開やスピーディーなプレーができるわけではない。いろいろなグループがいろいろな遊びをしていた。ほかの遊びをじゃましないように、かいくぐるようにパスを回し、ドリブルで進んでいくのだ。
ボールは当たっても危険のない軟式テニス用のゴムマリだった。
狭い中庭に、そんなサッカーのグループがふたつも3つもあった。学年ごとのグループだったのだろう。まさに入り乱れてゲームに興じていた。不思議にけがはなかった。
どうチームの区別をしたのか、よく思い出せない。片方のチームがシャツを腕まくりして区別していたような気もする。とにかく、そんなことで苦慮した記憶などないほど、私たちは「中庭のゲーム」に熱中した。
朝礼前にもゲームをするために、私は始業20分前には学校に着いた。高校の3年間を通じて遅刻も欠席もなかったのは、このゲームのおかげだった。
そして昼休みこそ、私たちの1日のハイライトだった。30分以上プレーできたからだ。私たちは弁当を3分間でかきこみ、誰よりも早く中庭に出てゴールを確保し、ゲームを始めた。昼食後の5時間目、最初の10分間は、流れ出る汗を拭くことで費やされた。
私たちの学校は、サッカーが盛んだった。サッカー部員だけでなく、バドミントン部員、テニス部員、新聞部員など、いろいろな連中が参加していた。バレー部員は、ヘディングの名手だった。空中での姿勢が、うっとりするほどきれいだった。
みんながそれぞれの得意技をもち、短い時間のなかでそれをいかに表現するかを競った。そうしたプレーができた者は、本当に幸せそうな顔をしていた。いや、得意なプレーができなくても、私たちはみんな幸せだった。
その幸せな記憶が、いまも私たちをサッカーと結びつけている。私のようにサッカーを仕事にまでしてしまった者は他にはいないが、多くの同級生が、いまでもシニアチームで試合をし、あるいはフットサルに興じている。
少年時代の幸せなゲームの記憶は、おそらく、ほとんどのサッカー選手にあるはずだ。Jリーグの選手も、ワールドカップのトップスターも、そのサッカーの原点は、少年時代の幸福感に違いない。
冒頭の「自伝」の選手は、空き地に変形のグラウンドをつくり、近所の友だちとそこでゲームに興じた。その幸福感こそ、世界的な名選手になるスタート台だった。
ワールドカップの「戦士たち」の心の底にも、少年時代の幸福なゲームの記憶が眠っている。そしていまも、意識下から彼らを動かしている。
どんな「ビッグビジネス」の時代、どんな「組織的サッカー」の時代になっても、ワールドカップが私たちに夢や喜びを与えるのは、そのおかげに違いない。
(2002年1月30日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。