サッカーの話をしよう
No.412 稲本潤一のモチベーション
ロンドンでプレミアリーグのアーセナル対エバートンを見た。
リーグ最終日。すでに、その3日前にアウェーでマンチェスター・ユナイテッドを1−0で下し、FAカップに続いてプレミアリーグでも優勝を決めていたアーセナルにとっては、ホームのファンに「2冠」を報告する喜びの試合でもあった。
数日間ロンドンを覆っていた雲が切れ、明るい日差しに包まれた午後、アーセナルは4−3で勝ってファンの幸福感をさらにふくらませた。
試合後、ピッチの上でプレミアリーグ優勝の表彰式があった。選手とスタッフ全員が登場したが、そのなかに、背番号19、稲本潤一選手の顔もあった。
ユニホーム姿の選手は、背番号順に並び、ひとりずつピッチの上につくられたひな壇の上に登っては優勝メダルを受け取り、カップをもってファンに掲げて見せた。しかし20数人の選手のうち、3人だけはメダルを受け取ることができなかった。「出場10試合以上」という規定があるためだ。
21歳のGKスチュアート・テイラーは、今季プレミア9試合出場の記録をもっていた。昨年秋、イングランド代表でもある第1GKのデービッド・シーマンとその控えが相次いで負傷し、チームが危機に陥ったとき、敢然とゴールに立ったのがテイラーだった。1月なかばまでの9試合で、アーセナルは6勝2分け1敗という好成績を挙げ、優勝の足固めをした。
そのテイラーが、後半40分から交代出場したときには、スタンドから割れんばかりの拍手が起こった。誰もが、これで彼にも優勝メダルをもらう資格ができたことを知っていたのだ。もちろん、アーセン・ベンゲル監督も、その意図で出場させたのである。
優勝セレモニーの喜びの輪のなかで、メダルを受け取ることができなかった稲本は悔しそうだった。UEFAチャンピオンズリーグなどで4試合の出場があったものの、プレミアリーグのピッチにはついに立つことができなかった。ヨーロッパへの挑戦1年目は、がまんを強いられた年だった。
稲本は笑顔を絶やさなかった。しかし顔は笑いながらも、両腕を組み、居心地の悪さに耐えている様子だった。
現在の世界サッカーのひとつの頂点ともいうべきプレミアリーグ優勝。しかしその優勝に、自分の力が必要とされることはなかった。仲間の選手たちやチームスタッフから肩を抱かれて声をかけられ、会話をかわしていても、稲本の心に何が渦まいているか、遠いスタンドの席からも想像がつく気がした。
思えば、稲本にとって、そうした思いは、最初ではないのかもしれない。99年のワールドユース選手権準優勝のときも、負傷明けで体調が十分ではなく、ほとんどプレーできないまま銀メダルを受け取った。5月11日のアーセナル・スタジアムでは、そのときよりはるかに悔しい思いが支配していたように思う。
しかしがっかりしているひまなどない。逆に、稲本の前には、大きなチャンスが広がっている。もちろん、ワールドカップである。
そのチャンスを十分に生かして日本をひっぱり、上位進出に導くことができれば、それは必ず、稲本のサッカー人生の大きな飛躍につながる。アーセナルでの立場も、当然変わるはずだ。
試合後、短時間ながら稲本の表情を見ることができた。そして、誰よりも稲本自身が、そうした思いを強く抱いているのだと感じた。
5月11日、アーセナル・スタジアムでの華やかな優勝セレモニー。そのときの思いが、ワールドカップでの稲本の強烈なモチベーションとなる。
(2002年5月15日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。