サッカーの話をしよう
No.418 トルシエが教えてくれた人間らしい心
「日本代表監督フィリップ・トルシエ」の4年間が終わった。
日本代表の監督として、トルシエほど物議をかもし出した人物はいなかった。攻撃的で歯に衣着せぬ発言は、しばしば大きな問題となり、たくさんの敵もつくった。
しかし私は、彼が日本代表と日本のサッカーに発し続けたメッセージを忘れてはならないと思っている。それは、「サッカー選手である前に、人間らしい人間であれ」ということだ。
トルシエの日本での最初の衝撃は、98年10月、最初の国際試合後の記者会見での質疑応答拒否事件だった。試合の朝、伊東輝悦選手のお母さんが亡くなった。
「人の生命の前では、サッカーなど無に等しい」
トルシエはそう語っただけで、一方的に席を立った。
会見室は騒然となった。しかし私は、彼が正直な気持ちを語っていたように思った。
サッカーチームは家族のようなものだ。そのひとりの母親の死は、チーム全体の悲しみである。何もなかったように試合を決行した日本サッカー協会は、明らかに何かが欠落していた。トルシエはそこに強い反発を感じたのではないかと思ったのだ。
それから2年半後の昨年3月、日本代表がパリでフランス代表と戦った歴史的な試合を、私は見逃した。直前に父が亡くなったためだった。
遠征の地で誰かからそのことを聞いたトルシエは、わざわざ弔電を打ってくれた。心のこもった電文だった。
帰国後の記者会見の後に、私は彼に礼を言った。そして、重要な試合を取材に行けなかったことをわびた。
彼の言葉は、2年半前とそっくり同じだった。
「いや、人の生命の前では、サッカーなど無に等しい」
さらに月日が流れてことし5月。アウェーでレアル・マドリードと対戦した翌日に、トルシエの甥が交通事故で亡くなった。トルシエはチームを離れ、ひとりパリに戻った。再合流したのは、ノルウェー戦の前日のことだった。
日本に戻ったら日本代表23人の発表がある。パリに滞在中、トルシエはその発表会への欠席を日本協会に申し出た。少しでも長く家族とともに過ごしたいのだと、私には思えてならなかった。
しかし日本サッカー協会は「またトルシエのわがままが始まった」ほどにしか考えていないようだった。その思いが報道陣にも伝わり、トルシエはまた敵を増やした。
トルシエは、非常に明晰なサッカー頭脳とともに、未熟で、欠点の多い性格をもった男だった。駆け引きもした。しかし同時に、彼ほど人間としての心や思いやり、そして人と人とのつながりをサッカーの場に持ち込んだ指導者は、これまでの日本サッカーにはいなかった。
トルシエが無条件に愛したのは、サッカーに一生懸命に取り組み、向上心をもって努力する選手たちだった。スター意識にとらわれた選手などを見つけると、容赦のない批判の言葉を浴びせたが、その裏にも深い愛情があった。
選手たちがどれほどその愛情を感じていたかは知らない。しかしこれから10年、20年とたち、彼らが指導者など現在とまったく違った立場になってひとつのチームを率いていかなければならなくなったとき、この4年間、どれだけトルシエの愛情に引っぱられてきたかを、明確に理解することになるだろう。
その愛情は、人間として人間らしく生きる姿勢から発生している。伊東選手のお母さんの死を心の奥底から悲しみ、「その前ではサッカーなど無に等しい」と、本心から思う心から生まれたものだ。
こうした「人間らしい心」がもたらす力をトルシエから教わったことを、けっして忘れてはならないと思うのだ。
(2002年6月26日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。