サッカーの話をしよう
No.420 がんばれ、テレビ中継
今回のワールドカップで私を最も驚かせたのは、日本中で多くの人がサッカーに熱中したことだった。ワールドカップに、ではない。サッカーに、である。
メディアがあまりに騒ぐものだから、どんなものかと思って見てみた。そしてはまってしまった。そんな人が多かったのではないか。そうでなければ、決勝戦66パーセントなどという驚異的な視聴率が出るわけがない。
「サッカーはもういやだ」という声を聞いた。テレビで見ていても、とにかく疲れる。一瞬でも気を抜いたら、大事な場面を見逃しそうになる。トイレに立つことも、冷蔵庫にビールを取りに行くこともできない。集中しきっているから、見終わるとぐったりしてしまうというのだ。
そうした話は、年配の男性に多かったようだ。これまでテレビでJリーグを見ても、あまり面白いとは思わなかった。しかしワールドカップはまったく違った。スピード、激しい接触、一本のパスがもつ意味、そして芸術的なまでの守備。それは、かつて体験したことのない興奮だった。
なぜ、ワールドカップのサッカーがそれほど人びとの心をとらえたのだろうか。もちろん第1には、超一流のプレーだったからだろう。しかし私は、それに劣らない理由が、テレビ放映の質にあったのではないかと思っている。
今回の国際映像をつくったのは、フランスに本社を置くHBSという会社だった。日常、何かの番組をつくっている会社ではない。ワールドカップの国際映像制作のためにつくられた会社であり、技術スタッフはすべてフリーランスのテレビ技術者、すなわち「傭兵部隊」だった。
かつては、ヨーロッパでも、サッカー中継は国営放送局など有力局の独占だった。しかしデジタル多チャンネル化にともない、10年前に比べると毎週数十倍もの試合中継番組が制作されるようになった。そうした制作の担い手となっているのが、彼らフリーランスの技術者たちなのである。
試合の流れを分断しないカメラワーク。プレーの意味や意図を即座に映像として伝える絶妙の「スイッチング(同時に撮影されているいくつもの映像から電波に載せる映像を選ぶ作業)」。日本人が魅せられたのは当然のことだった。
もうひとつ見逃せないのは、アナウンサーと解説者の集中度だ。Jリーグなどふだんの日本のサッカー中継は、ともすれ緊張感に欠け、試合の流れなどそっちのけでアナウンサーと解説者の「サッカー談義」になってしまっている。当然、視聴者は試合に集中することなどできない。
しかし今回のワールドカップでは、アナウンサーはプレーしている選手名を正確に伝えようと努力し、解説者も手みじかなコメントで試合を引き締めた。彼ら自身がサッカーに熱中し、のめり込んでいたから、視聴者を集中させる放送ができたのだろう。
ワールドカップが終わり、Jリーグが始まった。今回のサッカー人気が定着するか一過性のもので終わってしまうかは、何よりもまず選手たちがどんなプレーを見せるかにかかっている。しかし同時に、テレビ放送の質も、大きなカギを握っている。
番組制作予算はワールドカップの数分の1、あるいは数十分の1かもしれない。カメラの台数も限られているだろう。しかしそのなかでも、技術者たちの努力工夫と、アナウンサーや解説者たちの集中度があれば、ワールドカップに負けない魅力を伝えることができるはずだ。
「どれ、Jリーグでも見てみるか」という人びとは何百万人もいるはずだ。いったん合わせたチャンネルを変えられないような、そしてトイレにも立つことができないようなテレビ中継を期待したい。
(2002年7月10日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。