サッカーの話をしよう
No.421 広く世界の見方に耳を傾けよう
新着の『ワールドサッカー』誌(イギリス)で、編集長のガビン・ハミルトン氏が、「日韓両国のすばらしいホスピタリティーにより、アジア初のワールドカップは大成功だった」と絶賛している。
彼はまた、韓国はほとんど南米的で、日本はヨーロッパ的だったと指摘する。熱狂的に自国を応援して大会を盛り上げた韓国に対し、日本は自国を応援しつつも公平なアプローチでこのワールドカップを楽しんだというのだ。
興味深い見方だと思う。日本人の私たちとしては、どうしても日本側に厳しくなる。そして韓国と比べて、「ここが悪い」という指摘が増える。
しかし共同開催は、文化も歴史も違うふたつの国でひとつの大会を行おうという試みである。「違い」があって当然だ。「外の目」としてハミルトン氏のような評価を読むと、目を開かされる思いがする。
ものごとの本質を見極める作業のなかで、見るポイントを変えることほど重要で、しかも難しいものはない。長い間探し求めていた本を最近ようやく見つけ、ページをめくりながらその思いを深めた。
チリから移住したアメリカ人であるルシアノ・G・カストロ著による『ワールドカップの歴史:南米からの見方』(2002年、アメリカのブルーノート出版社刊)という、そのものずばりの本である。
ワールドカップの歴史は、もっぱら「ヨーロッパの目」で語られてきた。とくに英語からの情報が中心になる私にとっては、イギリス(あるいはもっと狭くイングランド)人の目や見方、考え方を通じてワールドカップを見ることが中心になってきた。
同じ大会の同じ出来事でも、ヨーロッパ人の目からと、南米やアフリカ人の見たものでは違う解釈が成り立って当然だ。できるだけ南米やアフリカなどの「違った目」からの情報を入手するよう努力してきたが、実際のところは、なかなかままならなかった。
カストロ氏の本職は電気技師で、南アフリカにも長く住み、そこでは94年ワールドカップ(アメリカ大会)のテレビ解説者まで務めた。現在の国籍はアメリカだが、「南米人」としての誇りをもち、南米から情報を仕入れてワールドカップを見てきた。その著書のなかで、彼はヨーロッパ人たちの独善的な見方を敢然と攻撃する。
たとえば、78年アルゼンチン大会は「グラウンド状態が最悪だった」と、大きな非難を浴びた大会だった。とくにマルデルプラタのスタジアムのピッチは、まるで昨年11月の埼玉スタジアムのようにボコボコと芝生がはがれ、プレーに影響を与えた。
しかしカストロ氏は、「これは仕方がないことだった」とアルゼンチンを擁護する。
「ワールドカップは、ヨーロッパのサッカーシーズンに合わせて6月に開催される。しかしそれは南米では真冬にあたる。当時のヨーロッパの1月や2月のピッチコンディションを思い浮かべてほしい。あのときのアルゼンチンより悪くないといえるグラウンドがいったいいくつあるか」
ワールドカップ開催を通じて、多くの日本人が「世界」を広げただろう。世界には実にいろいろな文化や習慣をもった国があり、サッカーも驚くほど多彩だということだ。人びとの日常生活のなかにサッカーがあり、人びとの好みや願いに支えられて各国のサッカーが成立している。違いがあって当然なのだ。
ひとつの大会にも、世界の各地にいろいろな見方、評価がある。まして今日のワールドカップは、巨象のように途方もない規模があり、ひとりで全体を体験するのは不可能だ。一面的な見聞にとらわれず、広く世界の見方に耳を傾けて評価を確定していく必要がある。それこそ、「サッカー的態度」といえないだろうか。
(2002年7月17日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。