サッカーの話をしよう
No.432 アマラオを助っ人とは呼ばせない
ある日曜の朝、新聞を開いて頭に血がのぼった。
「助っ人で勝った」
こんな見出しが出ていたからだ。Jリーグで、FC東京がエース・アマラオのゴールで勝った試合だった。
「冗談じゃない。アマラオは『助っ人』じゃないぞ!」
アマラオは、FC東京が「東京ガス」として旧JFLに加盟したころからの選手で、チーム最古参のはずだ。そして、チームをJFLからJ2へ、さらにJ1へと導いた立役者だ。その功労者が、なぜ「助っ人=一時的なメンバー」呼ばわりされなければならないのか。
怒った勢いで、東京の西部、小平市にあるFC東京の練習場に向かった。
練習中のアマラオは、誰よりも大きな声を出し、誰よりも力強く走っていた。
「30歳を過ぎたころから、どのくらい寝ればいいか、どういうトレーニングをすればいいか、わかってきた。おかげで、20歳の選手にも走り負けないよ」
来日した92年以来11シーズン、アマラオは驚くべきコンスタントさで得点を重ねている。293の公式戦に出場して170ゴール。1試合平均0・6点は、JFL時代(7シーズン)、J2時代(1シーズン)、そしてJ1時代(3シーズン)と、相手のレベルが上がっても、まったく落ちていない。そこに、アマラオの努力の跡を見ることができる。
「来日当時、東京ガスは完全なアマチュアチームで、ユニホームの洗濯も練習場のライン引きも自分たちでしなければならなかった。単に2部のクラブと思って移籍してきたので、プロでなかったのは驚きだった」
ブラジルでは、主としてイトゥアノというクラブで活躍し、トヨタカップにも出場した名門クラブ、パルメイラスでもプレーしたアマラオ。ギャップの大きさに最初はとまどったという。
ただ、実力的にはまだまだだったが、チームメートはみなサッカーを愛し、勝ちたい、強くなりたいという気持ちをもっていた。社員として仕事をしながらサッカーに打ち込む姿勢にも感心した。
東京ガスは次第に力をつけてJFLの上位に進出、98年には初優勝して99年に誕生したJ2への参加資格を得る。クラブ名もFC東京と改称した。そうしたなかで、アマラオはサポーターから「キング・オブ・トーキョー」の称号で呼ばれるようになる。
「ラモスやジーコのように日本のサッカーに貢献した人がそう呼ばれるならわかる。でも僕は、まだそれに値しないと、正直とまどった」
しかしサポーターが自分のことをそんなふうに大事に思ってくれているのだと考えるようになって、やっと受け入れられたという。
「僕は、ひとりの選手として、そして人間として、このチームと一緒に育ってきた。感謝しているし、このチームは、僕にとって第2の家族だと思っている」
99年、苦しい戦いの末にJ1昇格を決めたとき、サポーターも一緒になって抱き合ったり、胴上げしたりした。そのときの幸福感は、日本にきてからの10年間で、最も美しい瞬間だという。
「みんなの力で勝ったんだと、心から思えた。そして僕も、その力の一部になれた。本当に感動的だった」
きょう10月16日、アマラオは36回目の誕生日を迎えた。日本にきてから11回目の誕生日である。
短く刈り込んだ髪には、だいぶ白いものが目立つようになった。しかしどの試合でもチームを勝利に導くためにゴールに向かっていく彼のプレーは、白髪の本数の何百倍、何千倍ものファンに、夢と勇気を与えてきた。
もう絶対に、アマラオを「助っ人」などと呼ばせない。
(2002年10月16日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。