サッカーの話をしよう
No.435 イングランドとフランス、日本と韓国
11月3日に行われたイングランド・プレミアリーグのフラム対アーセナルは、興味深い一戦だった。フラムはティガナ、アーセナルはベンゲル。両チームの監督は、ともにフランス人だったからだ。
監督だけではない。ピッチ上にもたくさんのフランス人選手が出ていた。とくにフラムは、11人の先発のうち5人がフランス人だった。
「フランス・パワー」の活躍は、この2チームに限らない。2002年ワールドカップのフランス代表23人のうち8人がイングランドのクラブ所属だった。リバプールでは、フランス代表の監督を務めたこともあるウリエが指揮をとっている。
いまや、「フランス・パワー」のないプレミアリーグなど考えられない。しかしフランス・サッカーの「イングランド侵攻」の歴史は、驚くほど浅い。20世紀初頭にクロジエというGKがフラムで活躍したが、その後は1984年にアストンビラと契約したシクスまで皆無だった。彼も、15試合に出場し、2ゴールを記録しただけで、1年でイングランドを去った。
しかし92年はじめにドーバー海峡を渡ったひとりのフランス人FWが歴史を変えた。マンチェスター・ユナイテッドに黄金時代をもたらしたエリック・カントナである。
才能には疑いがなかった。フランス代表でも欠くことのできないエースだった。しかし歯に衣着せぬ言動と、絶え間のない監督やレフェリーたちとの衝突は、カントナを25歳で引退に追い込もうとしていた。
91年の年末、引退を決意していたカントナを、数人の友人がいさめた。もし契約半ばで引退してしまったら、所属のニームに多額の違約金を支払わなければならない。カントナは翻意した。しかしフランスはもういやだと主張した。
「フランスから遠く離れて、文化違うところ、たとえば日本なんかどうかな」と、彼は言った。
エージェントが調べたが、日本は日本リーグのシーズン終盤に近く、そのタイミングでの移籍は無理だった。エージェントはイングランドのクラブはどうかと薦めた。
カントナは了承した。歴史の転換点だった。92年、リーズをリーグ優勝に導いたカントナは、即座にマンチェスター・ユナイテッドに引き抜かれ、大好きな背番号7を背負っていくつものタイトルをもたらした。
以後、フランス・サッカーの優秀さを認めたイングランドのクラブが、数多くのフランス人選手を獲得するようになる。そして、フランス人選手とフランス人監督は、イングランド・サッカーの質的向上に大きな貢献をする。
A・ヘイズ他著の近刊『フランス革命〜カントナ以後イングランド・サッカーの10年間』(英国・メインストリーム社刊)を読みながら、私の頭をよぎったのは、日本と韓国の関係だった。
過去数年間、数多くの韓国人選手がJリーグで活躍した。洪明甫、柳想鉄らはワールドカップでも大活躍した。しかし現在、代表クラスは市原の崔龍洙、京都の朴智星、清水の安貞桓など数人にすぎない。
指導者としては、札幌の張外龍監督がいる。シーズン半ばに就任、J2降格から救うことはできなかったが、確固たる信念の下、チームをまとめ上げた。
もっと数多くの韓国人選手、韓国人指導者が、日本のサッカーにほしい。ワールドカップ共同開催をきっかけに、韓国だけは「外国籍選手」の枠から除外し、流入を促進してはどうか。
日本で不足している2つのポジションであるストライカーとストッパーに次々と優秀な選手を輩出している韓国のサッカーから学ぶものは、まだまだ多いはずだ。
(2002年11月6日)
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