サッカーの話をしよう
No.437 高校サッカーとイングランド、二つの誤審
全国高校選手権の岡山県予選決勝で、決勝点となるべきゴールが誤審によって認められず、結局PK戦となって、負けていたはずのチームが勝つという「事件」が起こった。
1−1で迎えた延長前半、作陽高校のシュートが水島工業高校のゴールを破り、ネットを張るためにゴールの後ろに取り付けられている支柱に当たってピッチ内に戻った。作陽の選手たちは歓喜して抱き合い、水島工の選手たちはがっくりとうなだれた。しかしなぜか「ゴールイン」の笛は吹かれず、そのままプレーが続行された。主審は、ボールがゴールポストからはね返ったと勘違いしたのだ。
試合後、ビデオで検証した結果、明らかな誤審であることが判明した。しかし試合結果も、全国選手権出場校も変わることはなかった。
ルール第5条に、「プレーに関する事実についての主審の決定は最終である」と明記されている。プレーが再開される前ならばその決定を変えることができるが、いったんプレーが再開されたら、変えることはできない。試合結果も、その判定を生かしたままで決定される。受け入れ難いことかもしれないが、そうした「理不尽」も、サッカーという競技の一部なのだ。
ところが今週、イングランドで興味深い「事件」が起きた。審判が、試合中の決定を試合後に覆したのである。
プレミアリーグのアーセナル対トットナム。結果は3−0。ホームのアーセナルの完勝だった。勝負の分かれ目は、前半26分、トットナムのウェールズ代表MFサイモン・デービスの退場だった。60分間以上を10人でプレーしなければならなくなったトットナムに勝機はなかった。
退場は2枚目のイエローカードによるものだった。26分にビエラへのラフなタックルで2枚目を受けた。誰の目にも明らかな反則だった。問題は1枚目だ。
その4分前、デービスのタックルにコールが大きく吹っ飛んだ。マイク・ライリー主審は迷わずイエローカードを出した。ところがこのとき、デービスはコールにほとんど触れてもいなかったのだ。
試合後、トットナムのホドル監督は、「最初のイエローカードは明らかな間違いだった。見直してほしい」と、ライリー主審に要望した。ライリー主審はビデオを見直した。
「僕はタックルをよけようとしただけなんだ。主審は自分の判断で判定を下したのだろう。でも正直に言えば、不運で、厳しすぎる決定だったね」というコールのコメントも読んだのかもしれない。ライリー主審は誤審を認め、1枚目のカードを撤回するとイングランド協会に通知、協会もこれを認めた。必然的に、退場処分も取り消された。
審判の人数を何人に増やしても、誤審をゼロにすることはできない。はいったはずのゴールが無視されたり、ないはずの反則で退場になったり...。だが「間違いだった」と認めることはできても、時間を戻したり、試合をやり直したりすることはできない。
ただひとつだけ、こうした「理不尽」をなくす方法があるとしたら、それは、相手チームの選手が「正直」になることだ。水島工の選手たちは、その場で「ゴールにはいっていた」と主審に告げることができた。コールも、試合後のコメントを、カードを出そうとしているライリー主審自身に語ることができたはずだ。
そんな「正直さ」を、今日のサッカーで期待するのは、ばかげたことだろうか。
誤審を減らすよう、ゼロに近づけるように、努力や制度の改善が必要なのは言うまでもない。しかし本当の問題は、あまりに勝負にこだわり、スポーツに不可欠な正直さや公正な態度が、まったく見られなくなってしまったことではないだろうか。
(2002年11月20日)
1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。