サッカーの話をしよう
No.440 井原正巳の時代
ボールは、まるで吸い寄せられるように井原正巳のところに飛んできた。彼はそれを次つぎとクリアし、王者ジュビロ磐田の攻撃を止めた。
9月14日、磐田スタジアム。ブラジル人FWコンビを負傷で欠き、日本人選手だけで臨んだこの試合、浦和レッズは後半立ち上がりに2点を奪って優位に立った。そして、その後40数分間、ジュビロの猛攻をはね返し続けたのが、井原だった。
昨年はじめ、ジュビロからレッズに移籍した井原は、守備の組織を固めることができずに悩んだ。しかしことし、ハンス・オフト監督を得て、守備組織は飛躍的に改善された。その力を示したのが、Jリーグ最強の攻撃をストップしたこの試合だった。
井原正巳が初めて日本代表に選出されたのは1988年1月、日本代表監督に横山謙三が就任して最初の試合だった。まだ筑波大学2年生だった20歳の井原を、横山はリベロに抜擢したのである。
「10年間の日本のリベロを育てるんだ」
そうした横山の意欲は、誰の目にも明らかだった。井原を選出するに当たって、横山は、日本代表の守備の中心であり、主将であり、しかも30代を迎えたばかりで衰えなど見られなかった加藤久を外していたからだ。
横山の決断は正しかった。井原はその後10年間にわたって日本代表の守備を支え、主将として日本を初めてのワールドカップ出場に導いた。日本サッカーの歴史に新しい1ページを書き加えたのは、この控えめな男だった。
井原の前に日本代表の主将を務めていたのは、「闘将」のニックネームそのもののファイター柱谷哲二だった。96年にアームバンドを引き継いだ井原は、自らの「主将像」を結べずに苦しんだ。
97年秋、フランス・ワールドカップを目指す長く険しい予選。日本代表は、前半戦で1勝2分け1敗という思いがけない苦境に陥り、加茂周監督解任という非常事態に陥った。第5戦、アウェーでのウズベキスタン戦は、生き残りをかけた、ぎりぎりの試合だった。
そしてここで、井原は変わった。それまで反則の少ないクリーンな守備を誇ってきた井原が、キックオフ直後、いきなり相手に猛烈なタックルを見舞ったのだ。主審は迷わずイエローカードを出す。
しかし井原は平然とカードを受けると、振り返ってチームメートを見回した。
「きょうは、こうやって戦うんだ」。無言でそう伝えた。
苦しい試合だった。しかし日本は一歩も引かずに戦い、貴重な勝ち点1を得た。この試合が予選のターニング・ポイントだった。数多くのヒーローを生んだこの予選だったが、私は井原が見せたこの態度を忘れることができない。
20歳で日本代表となり、日産自動車、横浜マリノスで「勝者」の道を歩み続けた井原。しかし穏やかなその表情の裏には、常に何物かとの戦いがあった。それは、自分自身を乗り越える戦いだったに違いない。
ことし11月、ナビスコ杯決勝で鹿島アントラーズに敗れた後、井原は悔し涙を流した。この大会は、彼がまだ取っていない唯一のタイトルであり、同時に、レッズにとっては、初めてのタイトルとなるはずだったからだ。それを乗り越えることができなかった悔しさが、試合後の井原に涙を流させた。
日本サッカー史上空前の代表出場123試合。数々のタイトルとワールドカップ出場の栄誉。しかし本当に偉大なのは、彼が常に何かを乗り越えようと真摯に取り組んできた姿勢ではないか。
人生だから、成功も失敗も、勝利も敗北もある。しかし井原は、自分自身の姿勢を失ったことはない。
(2002年12月11日)
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