サッカーの話をしよう

No.442 新潟からの幸せな夜

 ワールドカップは旅だ。たとえ「ホーム」であっても。
 見知らぬ町、見知らぬ人びととの出会い。世界の頂点を目指すサッカーの試合だけでなく、1カ月間のすべてが、「ワールドカップ」という体験なのだ。
 2002年の年末。ワールドカップの年を振り返るとき、「幸福な時間」として強く心に残るひとつに、6月15日深夜、日付が16日に切り替わってから乗車した1本の新幹線がある。
 「できるだけ多くの試合を見たい」と欲張った取材計画。14日、1次リーグの最終日に大阪でチュニジア対日本を見た翌15日には、決勝トーナメント1回戦を新潟で、さらに翌日には大分で見ることにしていた。しかし大分に行くには、朝早く東京を発つ飛行機に乗る必要があった。

 懸念を払拭させたのは、「深夜の新幹線を出す」という発表だった。朝までに東京に帰ってこられれば問題はない。
 新潟ビッグスワンでの最後の試合となったデンマーク対イングランドは、イングランドの決定力が冴え、3−0の圧勝だった。すべての取材と原稿を終え、仲間の記者とふたりでスタジアムを出たころには、12時を回っていた。
 新潟駅に到着すると、新幹線口には長い行列ができ、入場コントロールが行われていた。混乱なく全員に着席してもらうため、列車の定員ごとに入場させているという説明だった。
 午前0時発を皮切りに、10分ごとに11本もの東京行きが予定されていた。座席指定はなく、全席自由席というシステムに、「深夜に東京まで座れなかったらつらいな」と思っていたので、この入場システムには感心した。多少並ばされても全員の座席があることがわかり、みんな安心しているようだった。

 改札口を抜けると、そこには意外な光景があった。深夜の殺風景な構内に、たくさんの女性が並んでいたのだ。彼女たちは、ホームに上がっていく人たちに、小さなポリ袋を手渡していた。
 「また、新潟にいらしてください」
 にこやかな表情でそう声をかけてくれたひとりの夫人から、私もひとつ受け取った。
 ホームに上がって列に並び、開けてみると、なかには、新潟県各地の観光パンフレットとともに、紙パック入りのお茶と、ビスケット状の携帯用エネルギー補給食品があった。
 深夜の駅構内。もうキオスクも閉まっていた。臨時の新幹線内には売店も車内販売もない。お腹が減ったらつらいだろうという、細かな気配りだった。胸が熱くなった。
 待つ間もなく、列車がはいってきた。座席確保の競争もなく、落ち着いて席に着く。列車が静かに動きだすと、私は仲間の記者とその日の試合の話をしながらお茶を飲み、ビスケットをかじった。

 ざわついていた車内も、やがて静かになった。大半の人が眠りについていたのだ。
 しかし私は眠れなかった。試合の興奮が残っていたためではない。話に熱中していたためでもない。新潟を去るときに受けた心のこもったもてなしへの感動で、眠ってしまうにはあまりに惜しい、幸せな気分だったのだ。
 30分にいちどほど、ふたりひと組になった車掌さんが車内を行き来していた。検札ではない。熟睡する乗客が多いなかで犯罪が起きないようにという配慮だった。
 騒音対策のためゆっくりと走行した新幹線は、午前4時前に東京駅に到着した。そこには、新潟からの新幹線到着に合わせて出発する山の手線の電車が待っていた。
 これほどさりげなく、これほどきめ細かく気を配られた旅は経験がない。この数時間の「旅」は、私の「ワールドカップ2002」を、幸福感に満ちたものとしてくれた。
 
(2002年12月25日)
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1993年から東京新聞夕刊で週1回掲載しているサッカーコラムです。試合や選手のことだけではなく、サッカーというものを取り巻く社会や文化など、あらゆる事柄を題材に取り上げています。このサイトでは連載第1回から全ての記事をアーカイブ化して公開しています。最新の記事は水曜日の東京新聞夕刊をご覧ください。

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