サッカーの話をしよう
No.444 『女子サッカー』は存在しない
アメリカ遠征中の日本女子代表チームが、世界チャンピオンのアメリカ代表と0−0の引き分けを演じた。国内では、第24回全日本女子サッカー選手権大会が始まった。1月26日の決勝戦まで、全国の9会場で熱戦が展開される。
「女子サッカー」というと、男子とは違うルールなのではないかと考えている人が、いまもいる。それはまったくの誤解だ。ピッチの広さもボールの規格も男子と同じ。プレーヤーが全員女性であるというだけで、ルールには何の違いもない。「女子サッカー」という競技があるわけではない。同じサッカーなのだ。
陸上競技など、古くから女性も参加してきた競技では、ことさらに「女子陸上」などという表現はしない。なぜ「女子サッカー」と、あたかも他競技のように区別されるのか。そこには、長い間、女性のプレーヤーやチームを差別し、仲間として認めてこなかった体質がある。
イングランドでサッカーが生まれたのが1863年。この新しいスポーツに女性が興味をもったのも当然だった。10年もすると、女性だけのチームがあちこちに登場した。これに対しイングランド・サッカー協会(FA)は1902年に禁止令を出した。「危険だから」という理由だった。
第一次世界大戦中、男たちが戦場に出かけ、工場労働が女性たちにゆだねられるとともに、再び女性のサッカー熱が高まった。戦争犠牲者の家族への援助のために行われた女性のサッカーの試合には、数万の観客が集まった。しかしそれでも、FAは禁止令を解かなかった。加盟クラブに、所有のグラウンドを女性のサッカーに貸してはならないという、陰湿な方法だった。
女性のサッカー熱はヨーロッパ大陸にも広がったが、各国協会の差別姿勢は、イングランドと変わらなかった。ドイツとオランダのサッカー協会がサッカーグラウンドやスタジアムの女性チームへの貸し出し禁止を宣言したのは、1955年のことだ。
「先進国」がこうした姿勢だったのだから、日本で「女性がプレーすべきではないスポーツ」という常識がまかり通ったのも当然だった。1960年代には神戸の女子高などでプレーされていたが、わずかな例外だった。
しかし長年の迫害にもかかわらず、女性たちはプレーすることをやめなかった。1957年には「国際女性サッカー協会」が組織され、初めての国際大会も開催された。
「女性のサッカーも、同じ仲間に入れよう」と最初に提案したのは、ヨーロッパ・サッカー連盟だった。1971年、「各国のサッカー協会が、女性のサッカーもその管轄下に置くことが望ましい」という勧告を出したのである。女性チームへの差別が撤廃され、サッカーの仲間にはいる時代がようやく訪れたのだ。
日本サッカー協会も79年から「女子」の登録受け付けを始め、初年度には、52チーム、919人が登録した。81年3月には第1回全日本女子選手権も開催され、東京のFCジンナンが優勝を飾っている。
競技人口は90年代なかばにかけてじわじわと伸び、1000チーム、2万人に達した。しかしその後は、緩い下降線をたどっている。日本協会が普及の努力を怠ってきたからだ。女性の登録プレーヤー数が男性の40分の1にすぎないという数字が、普及の遅れを明確に物語っている。
その背景のどこかに、まだ「女子サッカー」と呼び、「サッカー」とは区別する、古い体質の残滓(ざんし)がある。ジュニア、ユースからシニアまで、あらゆる年代で女性も男性も同じようにサッカーを楽しむことができるよう、日本サッカー全体の構造や意識を根本から見直すことから始める必要があると思う。
(2003年1月15日)
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